エトワール・ヨシノとは

エトワール・ヨシノとは

エトワール・ヨシノ誕生のきっかけ

マメヒコの宇田川町店で、ゲーテ先生の音楽会という音楽劇をやってきました。2015年から続けているコメディ音楽劇です。その一環で、2017年の夏「心よ震え給え、歌声とともに」という演目をやったんですね。そこでエトワール・ヨシノという役を演じました。

それがヨシノ誕生のきっかけです。「心よ震え給え、歌声とともに」は秋に再演をしたんですけど、再演の時、ヨシノがステージに立ったら、お客さんが「ギャー、ヨシノー」って歓声というか、叫び声を出した。どの回をやっても、そういう「ギャー、ヨシノー」が聞こえたのね。

なんだろこれは?みんなの心の中に、本物のヨシノが存在している。そのことにすごく驚いたことを覚えています。

エトワール・ヨシノとは

エトワール・ヨシノは、喫茶エトワールというシャンソン喫茶の女主人という設定でした。そこでずっと歌ってる、初老のシャンソン歌手ですね。ただ単なる歌い手ではなく作詞も手がてる。シャンソニエーchansonnire 、詩人兼歌手なのよ。シャンソニエーは鋭い風刺を含ませ、気のきいた皮肉を込めた歌詞を必ず自分で作る。プライド高い作家なんですよ。

喫茶エトワールは、東京オリンピック前の再開発が進む架空の町に存在している。これもそういう設定でした。東京は家賃がどんどん高くなって、なんとかいままで持ちこたえてきたけど、いよいよ家賃が払えなくなってしまって閉店を余儀なくされる。

戦後のシャンソンはインテリの間で一時ブームになりましたけど、今のヒトにシャンソンを聞いてもらう喫茶店というのはそりゃ難しいですよ。

そこにゲーテ先生が来て、WEB(エブ)の力を使ってお客さんを集める。「心よ震え給え、歌声とともに」はそういうストーリーでした。

エトワール・ヨシノ復活

2018年に宇田川町店が閉店することになったので、ヨシノもこれでおしまいとFINALをやろうということになったんです。結局、喫茶エトワールもついに閉店となり、ヨシノもマイクを置くと決めたと。

喫茶エトワールとマメヒコの宇田川町店、ともに閉店するということで話をリンクさせてやりました。

それで新曲と往年のヒットパレードを全部やりますとかポスターを作って。ほんと、いい加減ですね。ヒットパレードなんかあるわけないですもんね。

だけどこの突っ込みの余白を作っておくのが、ヨシノは大事なんです。

宇田川を出てから

宇田川を出て、外の会場を借りてやるようになって色々と考えたんですね。ゲーテ先生の音楽会とは何なのか、エトワール・ヨシノとは何なのか。なぜボクらはこれをやり続けているのか。そして、これから、やり続ける気があるのか。あるとしたらどうすべきなのか。

マメヒコを長くやってますと、たくさんのお客さんやスタッフと関わります。職業も性別、年齢もバラバラのヒトたちですね。そうしますと世の中がすごいスピードで変わってるのがわかる。そして変化についていけなくて困ってるヒト、ちっともその変化に気づかないヒトがいるのがわかる。

一番大変のは、困ってるのは困ってるんだけど、それが時代の変化のせいだとわかってないヒトたちです。身近なあいつのせいだとか、金がないせいだとか愚痴ってる。

世の中が変わってても、仕事や環境によっては、自分の足元まで変化が及ばないヒトもいます。影響はグラデーションですからね。今の時代は戦争が起きてるというわけでもないので、表向きは平和。不満も不安も無いような顔してるヒトが闊歩してますけど、膝突き合わせて話をすると、奥底では不安で仕方ないというヒトが意外と多いのがわかります。

親の価値観と自分の価値観がずれてるけど、親に合わすほかないのかとかね。要は親に付き合ってて、時代に取り残されるんじゃないかと不安なんですね。

 

なにかにすがりたい

不安だとなにか信じられる対象が欲しくなりますね。占いもそうですし、健康食品、うまい話、なんでもいんですけど。なにかにすがりたい。すがったからには裏切られたくない。そういう思いが強い。

いやいや、孤独と不安が強いんだなぁ、という印象です。

なにかにすがりたいのがヒトだとボクは思います。すがらずに生きられるほどヒトは強くありません。宗教のなかった時代はありませんね。いまの日本では神様を信じてるヒトは少ないでしょうけど、神は拝まなくても、お金はみんな拝んでますね。

でもそのお金の信用もかなり薄れています。節約して貯金して信託銀行に預けてね、親と折半でマンション買って、子育てして、安心かっていうと、そんなのちっとも安心じゃないですね。そもそも夫婦なんて不安定な関係がいつまで続くかもわからないし、勤めてる会社がそもそも10年先に残ってるかもわからない。いつの間にか銀行や保険に利ざや抜かれたり、リスク取らされたり。不安を煽るのは金融の商売文句みたいなもんですから、結局、不安なんか減るどころか増えるばかりです。

貨幣は世の中をぐるぐる回るものです。自分のところにだけ留めようと思っても逃げてしまいます。出るから入ってくるもので、入ったら出ていくというのがお金です。無駄なお金は使いたくない、無駄な人間とは関わりたくない、一切の無駄なことはやらないではうまくいかない。無駄なこと、要らないもの、厄介な人間関係。

それは不安材料ではないんですよ。むしろそういう遠回りした道ばたに得るものが多くある。みんなが通る道には得るものはあんまりないんです。

ヨシノはそういうことを一貫して伝えてるんですね。

 

ヨシノは裏のヒト

ゲーテ先生が表のヒトだとすれば、ヨシノは裏です。

ヨシノは裏ではありますが、エロとグロはやらない。ナンセンスではありますけど。暴力や下品なことは嫌い。どこかまっとうなところがないとヨシノにならない。

たとえば、街路樹が無秩序に伐られることを、ヨシノは怒ります。街の景観を整えたいと訴えます。体裁ばかりで子供をないがしろにする先生や親にも怒る。子供一人一人に向き合うべきだと訴える。とても、まっとうなんですね。見た目はどぎついけど、とてもまとも。それが多くのヒトの安心に繋がるからです。

ヨシノは世の中の理不尽に腹を立てます。そこで共感を得ます。だけど、そこからがヨシノなんですが、理不尽はどうなるものではないですね。腹を立てるだけ空しいだけです。そこでヨシノは、どっちでもいいわと、あるがままを受け入れてしまう。世の中の理不尽に諦めてるんです。

つまり豊富な知識と経験から、主体的に諦めてるのがヨシノです。そして動物や子供、お年寄りのような弱い立場のヒトに、

「あんたも往生際悪いわね、とっとと諦めなさいよ。泣いてても仕方ないんだから、ねっ。おやつ食べて、次行きましょ、次」

と忠告する。それがヨシノの魅力だと思います。

 

ヨシノの歌詞​

ヨシノそのものが、自分なんて要らない存在なんだと受け止めてますよね。歌もとくに上手くもないし、ビジュアルもおかしいでしょ。ヨシノ自身が一番わかってる。

だからヨシノには、

「誰からも相手にされませんが、ワタシは楽しく生きていきます。
ほっといてくれてケッコー、
カッコー、コケコッコー」

という姿勢でステージに立ってる。

そんなヨシノの歌詞を書くときは、良い詞を書こうとしたらダメです。メロディーを聞いて、イメージが浮かんだらパッと勢いで書いちゃう。お客さんとの接点は、突っ込みを入れられるかどうかなんです。そういう詞を書かなくてはいけません。

「ヨシノはみずいろ」なんか、ポール・モーリア楽団の持ってる胡散臭さみたいなものを掬い取って、突っ込み満載の歌詞で歌うから、バッと受ける。

「カモメのジュテーム」もそう。ヨシノが名曲「枯葉」を聞くと、中野中目言問、って聞こえるんだと。二番は築地佃勝どきと歌います。ナンセンスですけど、どこかで映像が浮かぶ。青いドレスで日比谷線を待っているヨシノとか、傘を差して築地から勝どき橋を渡っているヨシノとか。その映像に脳内で突っ込みが入るように歌うし、作る。

メッセージはヨシノのビジュアルと立ち居振る舞いに込めてあるんですよ。ヨシノの声は超音波系ですから。おそらく人間には聞こえない周波数を発しているんだと思うんですね。そういう声で歌う。

そのすべてがヨシノであって、歌詞に込めるのはメッセージではなく、共感を誘う余白なんです。

共感は大事ですが、ルサンチマンを共感の材料に使うのは違うなとボクは思う。こんな腐った世の中はぶっこわせ、というスローガンは強いし、たくさんの革新派のヒトたち、くすぶっている若者に届きやすいのは確かですが、たくさんのアンチもまた生みます。

数は力ですから、たくさんの共感を集めたほうが大きなことはできます。だけどヨシノを応援してくれるヒトたちは、そういう解決を望んでいない気がするんですよね。

そういうものは少ないですから、それを届けるのが、ヨシノを続けていく理由なんだと思いますが、どうなんでしょうかね。