今、表向きではスターバックスみたいなカフェが増え、個人商店街は風前の灯という文脈だけど、ボクは、そうそうヒトの念て、なくならないってすごく思っている。
結局、新しいものと言っときながら古いものをリバイバルしているのが世の常だよね。最新のアルバムをレコードにして発売するとか、若い子が花火大会で浴衣着てるのもそう。
デジタルで削ぎ落としてきたノイズや感覚、肌触り、そういうものはどこか復活する。大事だと思うヒトの気持ちというのは、世代はあんまり関係ない気がするね。
桐生の古い家を、うちのお店が次の未来に繋いだように、ヒトの気持ちに宿っている、そのヒト単体で培ったものではないもの、前の世代、土地から引き継いだ、つまり過去をもう一回焼き直すことは歴史上もあるよね。
例えば、ピカソのキュビズムをアフリカ的な美意識と見ることもできるし、ルネッサンスもギリシャ、ローマの文化をもう一度再生させようという流れだったりするわけで、ものすごい新しいものは結局過去の新しい形での再編集とも言えるわけ。
MAMEHICOでは銀座、神戸、桐生とメンバーシップ制のカフェをやっているけど、メンバーシップ制のカフェと言っても、それの捉え方は地域ごとに違うかもしれないよね。
東京、特に西のヒトたちは何か作業して場所を保っていく、つまり武蔵野の雑木林を管理するようにカフェを管理することにはたけてるのかもしれない。
神戸なら商人、貿易商の集まりの街だからメリット、デメリットがはっきりしてないとなかなかのりにくいというのが、歴史から考えればあるかもしれないね。
桐生なら、織物の街で、飲食よりはもの作り。何か作って販売していきましょうということなら、桐生のヒトたちはものすごく一致団結するのかもしれない。
過去にある莫大な叡智はなくならない。過去に生きてきたヒトの無念さや叫んでいる言葉が、山に跳ね返り、未来から聴こえる声のように感じ取り、それに突き動かされ、その声を形にしたいと思う。
懐かしい未来へ、ボクらは何ができるのだろう、って考えたりするね。