象のチョンボという小説を
書こうと思ったのは、
そのモデルがいるからだ。
そのモデルは、
うちで働く女の子である。
彼女は3年ほど前に、たまたま
イベントに来たことがきっかけで、
通うようになり、前の会社を辞め、
うちに入った。
とにかく明るい。
そして積極的な性格。
相当なおっちょこちょいだが、
それも愛嬌。
彼女の笑顔は七難隠すところがあり、
ずっと順調にやってきた。
ところが年月が経つ。
経験も増える。
今まで許されていた小さな失敗も、
数が増えれば、
大きな失敗に匹敵してくる。
新しく入ってきたスタッフに、
間違ったことを教える。
新人は混乱する。
そのうち仕事で
抜かれることも出てくる。
笑って許されていたものが、
シャレにならなくなる。
お店というのは日々、
戦場みたいなものだから、
その甘い空気は場違いになる。
そのうち彼女の顔から笑顔が消える。
真剣になった証拠だ。
そこまではいい。
しかし、度が過ぎて、
良いところまで消えてしまう。
ぐっすりと眠れなくなる。
遅刻する。
それもひどくなってくる。
積み上げてきた
信用の貯金が減ってくる。
ついには貯金どころか借金になる。
そして無断欠勤までするようになる。
そうして彼女は笑えなくなり、
仕事場にも来なくなり、
眠れなくなり、そのまま辞めてしまう。
そうなると本人が本人を許せなくなる。
うちを辞めて、他を探すとする。
その先でうまくいけば、
それはそれでいいけれど、
そうは問屋が卸さない。
どこに行っても、
自分の思考回路が同じであれば、
似たような問題が起きる。
問題はこの、思考回路が
固定してしまっていることにある。
それは本人の資質もあるし、
親や学校の育て方の影響もある。
あまり考えずに、
教育のシステムに乗っかってきた場合、
学校というシステムが嫌なので、
いつも独自の思考回路だけを
かえって身に着けた場合。
単純で決まった思考回路を使って、
働ける仕事はいくらでもある。
いやむしろそういうほうが多い。
水がいつも同じ水路をたどるように、
いつも同じ思考回路に
なってしまうことは、
恐らく人間の癖だ。
ところが同じ水路ばかり使っていると、
そこが太くなりやがて大きな川になる。
波風ない人生なら、
悠々と流れる大河とともに、
穏やかに生きて行けばいい。
しかし、誰にだって思いがけない
人生の変わり目というのが来る。
今まではそれでよくても、これからは
それではだめだという時が来る。
そうなると水路の変更を
余儀なくされる。
そのとき、今までの大河では
乗り切れなくなる。
小さな水路が役に立つ。
既存のシステムを疑わず、
依存だけしていては、
小さな水路を作れなくなる。
違う水路は若いうちに
意図的に作っておかなくてはいけない。
必要な時がきて、
そのときに作ろうと思っても、
そのときでは遅い。
小さな水路は、意識的に
作っておかなくてはいけない。
まず色々なヒトのはなしを聞くことだ。
そして恥ずかしくても
声を上げることだ。
さらに、手を挙げやってみることだ。
自分の口から出た言葉と
実行することが、どれほど
乖離しているかを知る。
無知を知る。
そうすれば、おいそれと
太い水路ばかりに
水を流せばいいやと思わなくなる。
自分の思考水路を考えたほうがいい。
護岸工事で固めた大河ではなく、
小さな思考水路を持っているほうが、
人生はより豊かで楽しいと、
昔のヒトはそう言っている。
「老いては子に従え」とは、
違う水路を持つ必要性を
説いているものだし、
「若い時の苦労は買ってでもしろ」とは、
若いうちに複数の
小さな水路を持っておく、
大切さを説いたものだ。