ゲーテも二日目を終えて、やっと、あぁ、こういう作品だったんだなとわかってきた。
脚本を書くときはロジックでは書かずに気持ちで書くので、
まぁ、そうじゃないと、最後まで書ききれないので、
気持ちだけを頼りに、一気に書いてしまう。
そのあと、稽古、演出、上演、というフィルターを通すと、
それぞれそこで得たものが残り、
舞台には得体の知れない煮凝りのようなものが立ち上がる。
それを再び作家の目で、作品としてもう一度見つめ直して、
そもそもこの作品は何だったのか、と仕切り直して、
さらに勢いを増すよう本も書き直し、演出も盛っていく。
そこまでできると、あぁそういうことだったのねと気持ちも楽になり、
一安心できる。
初日まではまだ、なんのコッチャかわからない。
やっと冷静になって、二日目の舞台を終えた今日は、
一安心つけたところである。
ボクはすべてのことはロジックに考えるたちだ。
複雑な感情も、バラバラにすれば、数字で表せると思っている。
世の中は数字でできている。
だから。
ボクは数字で表せないことにとても興味がある。
カフエや演劇をやっているのもそうだし、
そのなかでも数字で表せないことが面白い。
今回の舞台のクライマックス、
カチューシャの「ドンブラコ、ドンブラコ」という台詞がある。
それを言うと、みんながひれ伏せて、拝み出す。
まったくどうでもいいシーンがある。
この「ドンブラコ」はただの呪文で、意味なんかない。
だけど、みんながひれ伏せてしまう。
そしてなぜかみんな拝んでしまう。
意味のない、呪文の力を説明することはできない。
ものごと、事象、現象には原因があり、
その原因を分析して、目的に向けて、改修したりすればいんだと考えている人にとっては、
きっと呪文は馬鹿らしい。
しかし、この世の多くは、呪文に引っ張られて進んでいるのだ。
親の言葉もそう、テレビの言葉、教師の言葉、権威あるものの言葉はみんな、
どこか呪文だ。
ロジックで考えれば、?ということも、
呪文となれば、疑うこともしなくなる。
ボクは、呪文がいけないとか、いいとか、そんなこと思わない。
呪文こそが人間らしさだと思うからだ。
「痛いの痛いの飛んでいけ」、で治ってしまう、
お母さんと男の子は微笑ましい。
ロジックで考えればわかりそうなものを、そうはならないのが世の中なのだ。
ボクも呪文が使えたらなと思うけれど、そうはならないので、
せめて「ドンブラコ・ドンブラコ」と役に言わせてみてるのである。