路地裏パラダイス

ゲーテが終わった翌日から、上海に来ている。東京にいると用事ばかりなので、いろいろなことを考えるために頭休めに来ているのです。
(頭を働かせるために、休みにきているという矛盾)

特に用事らしいことはなにもないので、ただ街を歩いたり、カフエを巡ったりしている。そして時々、未来のことを考えて苦しくなってしまう。

ボクが泊まっているホテルの部屋から見下ろすこの街は、排気スモッグの中にある。この大気汚染は活気ある証拠であるから、必要悪とみんな割り切っている。窓から見える高層ビルはまるで津波のようで、手前の小さな町を飲み込んでいるようだ。

窓の景色を見ながら、マメヒコのことを考えている。マメヒコは津波か津波に飲み込まれる側のどちらかといえば、それは明らかだ。飲み込まれてしまう側にいる。

津波に飲み込まれることをわかっていながら、ボクはどうしたらいいのか。

ヒトは古い生活、古い慣習、穏やかな暮らし、伝統、宗教が大事だとわかっていても、テクノロジーの進歩には尻尾を振ってしまう。

この街の共産主義国家というイデオロギーは、とうのまえに形骸化してしまっている。さらにいまの若者たちの時代に変われば、共産主義なにそれ?と綺麗サッパリ変わるだろう。もちろん、その間には対立や憎しみ、たくさんの年寄りや女性は涙を流すに違いない。

でも多くの子供や男達は、残酷なまでに新しいものに夢中なのも明らかだ。流れる涙の脇で、我が世の春を謳歌するものだ。

テクノロジーの発達はマタダビであり、猫は幼稚だとヒトは諌めることができるだろうか。
飛行機が安全に飛ぶようになれば、ヒトは飛行機に乗ってまで好きなヒトのもとへ飛んでいきたいものだ。オンラインで恋人と会話できるなら、どんなことをしてもつながりたくなるものだ。

そして欲望こそがビジネスの種であるのだ。つまりテクノロジーの発達に乗ってこその、ビジネスなのだ。

ではマメヒコはどうか。

言うまでもなく、テクノロジーの発達とはほど遠いところにボクらの店は立っている。ボクたちが利用できているテクノロジーは、せいぜい自動食洗機くらいなものだ。上海にもたくさんの路地裏がある。そこには一昔前とちっとも変わらない生活がある。毎日の食事のための野菜や魚を売っていたり、街場にある食堂は安くて旨くて今日も盛況だし、表では麻雀をしたり、トランプをしたりしている路地裏パラダイスがある。

そういう光景を見て回るのがボクは好きだ。そこには幸せがあるから。

マメヒコもおんなじなんだと思う。お茶を飲んだり、手作りのお菓子を食べたり、それを提供して喜ばれる仕事はいつの時代であってもなくなることがないものだ。そして、ときには映画を作ったり、お芝居をやったり、ご飯を作ったり、お祭りを定期的にやっているのもテクノロジーとは関係のないところにあるからだ。

窓から見える街はスモッグに霞んでいる。あの高層ビルが立つ前は、あの土地で麺を茹で、麻雀をしていた誰かのパラダイスがあっただろう。そのヒト達は、いまどこでどうしているのか。そして、いまの賑わいをどう思っているのか。

宇田川がなくなった後のことを考えている。気持ちでヒトは動かない。なにか新しいことを考えなくてはいけないけれど、なんともやるせない気持ちになってしまう。

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