民族美術館をひと通り見た。そこで感じたことを書く。
ヒトにとって、唯一無二の真実があるとすれば、それは誰でもいつかは死ぬということです。
これを書いてるボクだって、あした死ぬかわからないし、読んでるあなただって、読んでるいま、死ぬかもわからない。絶対にないとは言い切れませんね。
なんでも制御するのが当たり前だと思っている現代社会でさえ、あすの天気さえ予測つかず、もっとも関心のある自分の死、親しいヒトの死でさえ、まったく予測つかないのだから。
21世紀の日本も、アステカ文明も、さほど変わらないなと、美術館を見ながらそう思った。
自分の死に対する不安。とりわけ親しいヒトが死んでしまう喪失感を拭うには、宗教しかないんだろうといつも思う。そしてそれは一神教ではなく、多神教であるべきだと。
ボクは日本が無宗教だなんて思わない。みんなお金を拝んでいる拝金教だという気がする。それはそうなる必要があってそうなったわけで、いつもお金、お金と心配してるヒトは、それだけ信仰が厚い証拠で、経験な拝金信者だと言える。
ただ、お金は所詮、数字なわけで、お金が物の価値を定めているということにはちっともならない。拝金教のヒトは、物の価値はお金で感じてしまう傾向にあるから、そういう点では注意が必要だ。
といっても、なにかにすがりつきたいから信じているわけで、信じているヒトに、論理的にその是非を問うてわかるほど、残念ながら人間は賢くない。
メキシコの街を歩いていると、やたらと骸骨を見る。絵も置物も、骸骨をモチーフにしたもので溢れている。お土産屋も、やたらめったらに骸骨だ。さらに、ちょうどディズニーで、そのメキシコの骸骨を描いた映画がやってるらしく、それと抱き合わせで骸骨があちこちで売られてる。
メキシコには、秋に「死者の日」というお祭りがあって、街中に骸骨を飾る風習があるそうだ。
テレビでは見たことあるけど、実際は見てないからわからないが、カラフルで派手らしい。
カトリックのお祭りなのかと思って調べてみたら、死者の日は、アステカ文明の頃の風習らしく、それがカトリックに改宗させられて、その古い習慣も万聖節と一緒くたになって今に至るらしい。調べたらそう書いてあった。
日本では死ぬと火葬する。あれは、土地が狭いからで、ただヒトを燃やすにはそれなりのエネルギーがいるから、かつては土葬だった。そりゃそうだ、埋めればいんだもの。
日本では土葬しても、酸性土壌だから、死体は溶けて残らない。だから日本のおばけは、みんな足がない。土地が狭いから、墓を掘り起こして、またそこに次のヒトを埋める。すると、あら不思議、消えていなくなってる。
あぁそうか、おじいちゃんは、天国に行ったから、もうここにはいないのよねとなる。
メキシコは乾燥している。さらにアルカリ土壌だろうから、土葬したヒトはいつまでも骸骨として残る。博物館に行くと、古代人の骸骨がそのまま展示されている。
骨は死んだヒトそのものに違いないから、見た目はグロテスクに感じるけどあとは慣れで、要は遺影みたいなものなんだと思う。グロテスクに感じさせないデザインと色に仕上げれば怖いどころか、ディズニー映画にでさえなる。
メキシコのお土産売り場に行くと、貴族の女のヒトが骸骨になっている。これは何かと聞いたら、カトリーナ、だという。
どういうことかとさらに聞くと、「死んだら、貴族のきれいな女だって、所詮、骸骨になるってこと」と土産売り場のおばさんが言った。
これはメメント・モリに基づいてる。
日本のように中流階級、平等主義が徹底してると、カトリーナを見ても、あまりピンとこないだろうけど、カトリックの植民地だったメキシコは、強い階級社会なわけで、メメント・モリが救いの思想になる。
ただ、いまの日本にだって目に見えにくい閉塞感が漂っている。若者ファッションに骸骨のモチーフが多いのは、本人たちは無意識だろうけど、メメント・モリ「死んだら上も下もありゃしない」と自分たちを慰めているようなものだ。
いまの日本の若者たちは、見えないルールに縛られている。それは極めてキツイ階層社会にちかいものなのかもしれない。なのに神も信じちゃだめ、金も信じちゃだめ、となったら、何を信じればよいのか。アイドルやテレビのスターか。それも嘘の世界の産物だよとなるなら、リアルな誰かを信じるほかない。
人生は膨大な退屈な時間の浪費だと感じているたくさんの若者を知っているけど、彼らをどうしたらいいだろうと、美術館を出て歩きながら思った。スマホを手放せずにいるのは、そこに救いがあるからで、スマホ命も一つの信仰なわけで、それを取り上げてしまうのは可愛そうだ。
いまの若者は甘ったれている、大学まで行かせてもらったんじゃないか。スマホを手放し、もっと自分たちの力で考え、切り開き、努力すべきだろう。と言いたくなることもある。
ただそうやって突き放すことは裏を返せば、「あんたたちにかまってる暇はないんだ、こっちはこっちで必死なんでね」、という大人の本音でもあるわけだ。
自分も余裕のない大人の一人だから、偉そうなことはちっとも言えない。いい歳をして励ますことしかできないのも惨めだ。
せめて檸檬ケーキ祭りでも、みんなで楽しんでください。