誰の物語をインストールしてますか?

facebookの、

①イカハゲ本堂

②イカハゲ庵

という非公開グループチャット(アクセスすれば見られるので、厳密な非公開ではありません)です。どちらもそれぞれ、参加者が思いの丈を語ってもいいよ、吐露してもいいよ、としました。

「自由に表現しても攻撃されない安全な場所がほしい」、という声が多数上がったので、それなら作りましょうといって作ったものです。安全な場所で、吐露したいという思いは、多くのヒトが持っているものだと思います。

それで作ったわけですが、「ここは安全ですよー」と言ったからとて、ほいほいと、「そうか、ここは安全なのか」と、みんなの前で心情を吐露するヒトなんていません。吐露する場所がほしいというニーズはあっても、その声に押されて場所を作っても、店を開けたら開店休業となるのは当たり前です。

安全と感じるにはひとそれぞれ基準があるんです。

「このヒトは有名人だから安全だろう」とか、「このヒトは食べ物を美味しそうに食べるヒトだから安全だろう」、「このヒトは金払いがいいから安全だろう」とか、「文章から伝わる温度が自分の体温に近いので安全だろう」とかいろいろなわけですから、さぁ、どうぞ、といって出来上がるものではないのです。

そういう意味で、一つの解で安全性をデザインしたり、絶対的な安全を保証したりすることは不可能だし、ボクは無意味だと思います。

でも、多くのヒトが必要と思っているのも事実です。

仕事関係なら、職場のヒトと話せばいい。家族のことなら家族と。地域のことなら地域と話す。でもそれらは建前であって、本音というのは話すところはないものです。その本音とはつまるところ、なぜ私はこの世に生まれ、何を遺して死んでいくのか、という声です。

その話ができて、それを聞いて、きちんと導いてくれるヒトがいたら、どれだけいいか。誰しも思うでしょう。(そんなヒトいるわけ無いやい、と思って、のっけから考えもしませんがね)。

 

イカハゲ本堂の本堂というの「本尊が祀っているお堂」のことです。御本尊とは仏像のことです。ボクは昔からラジオで仏像のことをよく話していたんですがね。偶像を崇拝するというのは素晴らしいと思います。

偶像というのは、ただの木彫りの玩具です。そんなものをありがたがって崇拝して、なにになるのか?木の玩具がなにを答えてくれるというのか、フン。というのは半分あってるけど、半分は間違っているとボクは思います。

偶像というのは無口です。何もしゃべらない。なにも答えない。だけど無口であるものほど、雄弁である、というのは経験したヒトにしかわからないんだと思う。

仏像でもキリスト像でも、あなたの悩みをなんでも聞いてくれます。なんとも言えない顔をして、黙って聞いている。

洗いざらい自分の気持を話すと、自然と脳は整理されてくる。自分の悩みに対して客観的な視点を持つようになるんです。

そうやって客観的な視点を持てると、人間の脳というのは的確な答えを出すようになる、という脳作用を、巧みに利用しているんですね。

神様は信心深いヒトにしか答えを導いてくれないというルールも、実によくできています。神様の物語を知らないと、神様が頭の中にインストールされないからです。頭の中に仏様でも、キリストでも、アラーの神でもちゃんとインストールされると、脳の中の神様たちが、あたかもあなたの相談に乗ってくれているような感覚になります。

あなた「神様、さぞお辛かったでしょう。わたしたちのために、この世に生まれてきてくださったのに、わたしたちの罪までもろかぶりしていただいて、ほんとごめんなさい、ありがとう」

神様「いえいえ、わたしは当然のことをしたまでです。あなたも大変なのを私は知っていますよ。死んだら天国ですよ」

あなた「ホント!?まぁ、うれしい。もっとがんばります」

そうなると、なんにもしてないのに、テンション上がります。そのためには、物語のインストールが必要です。偶像っていうのは、究極の人工知能が埋め込まれた、ロボットだと言えると思います。

 

たとえば、ボクの周りにいるヒトや、ボクの文章を読んだり、ラジオを聞いてくれてるヒトたちは、少なからずボクがインストールされてるわけです。

だから、ボクがいないところでも、「こんなとき、井川さんならこう言うだろうな」というのがあるんですね。だから、そういうヒトたちは、イカハゲ本堂で話しができるんだと思います。こういうこと言っても、井川さんなら頭ごなしに非難したりしないだろうと。

井川がインストールされてないヒトには、なんのことやらチンプンカンプンですが、人間というものはそういうものだと思います。

あなたの頭には、誰の物語がインストールされていますか?

 

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