マメヒコの井川とクルミドコーヒー、
胡桃堂喫茶店の
店主影山知明さんとの対談です。
(影山知明)
井川さんはぼくの人生を2008年~
あらぬ方向へと導いてくれた
張本人であります。
以来、井川さんとはよく会い、
よく話をしてきました。
一緒に話をした時間を集計するアプリでも
あったなら
ぼくの人生においては井川さんがダントツの1位。
その長さはもちろんですが
その中身の濃さ、気付きの多さ。
それは、井川さんが、自分とはまったく違う
タイプだからということも
大きく作用していると思います。
ゆえ、今の自分の大きな部分は
こうした井川さんとの関わりによって
できていると言って、過言ではありません。
2019年2月「遠足について」 ブログより
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北海道のハタケに来ています。10年続けたハタケも昨秋をもって一区切りで、その片付けが今回の目的です。10年のあいだ、 ハタケの遠足をずっとやってきました。
とてもたくさんのヒトたちに参加してもらったのです。
豆を栽培し収穫までする一連の作業を、遠足のみなさんに手伝ってもらうのです。そしてハタケが終わっても、ゆるやかに遠足は続いています。
ボクの趣味嗜好でしかないのですが、ボクは散歩がとても好きなのです。
ボクにとって散歩とは、「好奇心」の解放です。
「好奇心」の赴くままに歩くことは、自分がどんなことに「好奇心」を持っているのかを確かめる大切な作業です。
ボクはこう思うんですがね、「好奇心」こそが「自分そのもの」だと思いませんか?
たとえば…。ボクは植物が好きです。散歩して様々な植物を見つけると嬉しい。小川に咲くヨモギ、浜大根という花は根が辛味大根に似ています、そして菜の花と辛子菜の葉の違い、酸っぱくて成長の早いスカンポ、水路脇にそよぐクレソン。それらを見つけたら、食べられるか、口に入れて確かめたくなっちゃいます。
たとえば…。ボクは生活の匂いが好きです。古い建物を見つけると、誰がどんな暮らしをしていたか、そのヒントを探したくなります。荒れ放題の庭に一台の錆びた子供自転車、崖っぷちにせり出したバルコニーの物干しざお、瓦屋根の上に立つ大きなパラボラアンテナ、(いったい誰と交信しているの!?)。
たとえば…。ボクは小さいころ自転車が好きだった少年だったので、高低差の地形に敏感です。自転車で坂道を登ることは苦しみですし、坂道を下り顔に風を受けることはとても楽しい。坂道は人生そのものだと言うのは大げさでしょうか。
水は高いところから低いところへ流れます。易きに流れるのは、人間と同じです。ボクの水への好奇心は、河原、湧水地、暗渠、かつてのあぜ道、古い井戸、国分寺崖線へと向かうのです。
そんな散歩ですが、ボクが主催する遠足は、大勢でする散歩でなくてはいけないと思っています。散歩が自分を見つける行為なら、遠足は他者を見つける行為と言い換えてもいい。
国分寺崖線遠足をはじめとしたボクが主催する遠足は、ボクの好奇心に賛同してもらうことが前提ではあるんですがね、参加者の好奇心を確かめる余裕を持ちながら行うよう努めています。
参加するヒトがみんな、ボクの好奇心と合致するわけではありません。他者なんですから当たり前です。ただ、ボクは主催の手前、何時何分にどこどこへ行き、これこれを見て、あれこれ食べましょうと計画を提示します。けれど、みんながそれに乗らなくてもいい。
予定の目的地に着かなくたっていい。そういう遠足なんです。
さて。世の中には言われた通りのことをしたがるヒトがいますし、案外と多いものです。
「いつもオレは偉い連中から指示を受けている」とそれに誇りを持っているならいいと思います。
ただ、中にはヒトに指示されているうちに「好奇心」が失せてしまうヒトがいるんですね。「好奇心」とは「自分そのもの」ですから、「好奇心」が失せるということは、「自分が何者なのかわからなくなる」ということです。会社や学歴といった肩書は自分ではありません。
無気力になって、生死をさまようような男性に出会い、かつて助言をしたことがあります。
「もうだめだ。オレは何がしたいのかわからない」と苦しそうでした。ボクはこう言いました。
「君が管理社会を生き抜く中で、自分自身を見失ってしまったとしても仕方のないことだ。でもね、大丈夫。人間ってタフだと思うんだよね。ダム底に沈んだ村のように、「自分」は沈んでいるだけなんだ。消えてしまったわけではないんだよ。君はボンベを積んで注意深く潜水してゆけば、やがて沈んでいる「自分」にたどりつくはずだから。さぁ、探しに行こう」
でも彼はこう言いました。
「自分を探す?その自分がオレにはわかっていないんだから、どうやって探していいかわからない」
「自分とはすなわち「自分の好奇心」ということだとボクは思う。好奇心を見つけるには散歩が一番だよ」
「散歩?そんなことしてる暇はオレにはない。第一、散歩して何の意味があるんだ?何の得になるというんだ?」
最後の言葉は彼の言葉ではなく、彼を受け入れてこなかった周りの言葉を、彼の口を通して彼自身がリフレインさせているんですね。
ため息をついてうなだれ、生気を失った顔の彼にボクはこう続けました。
「こういうとき、動けない君を慰めようと近づく人物がいる。仮にそいつを理解者と呼ぼう。理解者は、優しい言葉を君にかけるだろう。『安心して、動けなくたっていんだ、ヒトはそれぞれなんだから』とね。
君はその言葉に安心するかもしれない。動きたくても動けない弱さを理解者が、理解してくれたと、喜ぶんだね。ただ注意することがある。理解者は君を慰めているのではないんだよ。同じように動けない理解者を慰めているんだよ。いいかい、わかる?理解者は君を慰めるふりをして理解者を慰めているんだ」
つまるところ、自分の「好奇心」とは、自分そのものです。それを足で確かめるのが散歩なんです。彼は散歩を通して、自分を取り戻したようでした。
ボクが定義する遠足は、みんなで同じ道を歩く散歩のことです。自分が何者かわからずに悩んでいるヒトにとって、散歩はとても有効ですが、孤独を感じているヒトには遠足がとても有効です。
散歩が自分を認める作業なら、遠足は他者を認める作業だからです。むろん、他者を認めなければいけませんから、他者が自分と違うストレスは感じることもありますが、互いにある程度、認め合えれば孤独は減ります。