信仰が無くならない理由について

なぜ信仰が無くならないのか、少し考えてみた。

子供がここに一人いる。
その子の本質を周囲の親や先生、しかるべき大人が認めてやらずにいるとどうなるだろうか。
大抵の子は、どうやったら認められるか、その傾向と対策を考えだす。
そうやって出した結論が、自分を押し殺せぱ評価されるんではないかという誤解だよ。

そうやって、自分を押し殺した子が大人になるとどうなるか。
自分が好きではないが、良識あるように振る舞える大人になる。
あの子供は、生身のままの自分では絶対に他者には愛されないだろうと誤解したまま大人になってしまっている。
それはほんとに困った誤解だが。

こういうタイプの人間かどうか調べるのは簡単さ。

無邪気な人間と関わらせたらいい。

きっと失ってしまったものを見せつけられるような気がして、眉間にシワを寄せ、嫉妬と憎悪で苦虫を噛んだような顔をするだろう。
さてその不安を埋めるためにだ。

まずスキルを身に着けようとするだろう。
お金や権威、わかりやすく自分を大きく見せれそうなものを探し出す。
おあつらえ向きの、パック商品もいっぱいある。
けれどわかりやすい評価なんてものほど、危ういものだ。
他人と比較したら、どこまでも上には上がいるものだと知って絶望する。
さらに自分嫌いが進んでしまうかもしれない。
嫉妬や憎悪が大きくなり、ますます、自分が嫌になるかもしれない。

とにかく小さいときに確立された誤解を解かなくてはいけない。
誤解を解くにあたって、必ず呪いの言葉が聞こえてくる。
そうなるとパニックになって、頭が真っ白になる。
昔のことも今のことも区別がつかなくなる。
そうなると周りが何を言っても聞こえなくなってしまう。
だから、ゆっくりと時間と信頼をかけて、誤解を解いてあげなくてはいけない。
さて、生半可の気持ちでそれができるか。
家族だの、恋愛だのの関係で救えるのか。

しかるに。
信仰というものが無くならないのは、そのあたりに理由がある気がする。

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