無限の境界線

無限の境界線

横浜のみなとみらい駅の地下から地上に向かってまっすぐ、長いエスカレーターの脇に吹き抜けになっていて、壁に「無限の境界線」という詩が掘られている。この詩を僕が初めて知ったのは大学生だったけど、なるほどと思うのは最近だね。

「無限の境界線」が、詠っていること。例えば、リンゴの木は実をいっぱいつけるけど、自分の種を残すためにそんなにリンゴの実をいっぱい作る必要なくないか?と。溢れんばかりの過剰なリンゴを、人間がもいで自由に食べたりして、自分の血や肉にする。そのことについてリンゴは何にも咎めていない。植物が過剰に作ったエネルギーを、動物は自由に食べて幸せだと感じたりしているよね。と。 人間は、自然界のエネルギー、太陽でも水でも土でも、そういうエネルギーから、植物が過剰に生み出したエネルギーを食べて、生かされているんだと。

現代社会に照らして、僕なりに解釈すると、今の世の中の多くの人は、自分のことで精一杯で、自分さえ良ければ良いって人が多いけど、そういう人だって自然の有り余るエネルギーを受けて生きてる。行き過ぎた資本主義の現代で、利己的な人は、自分の才能を金に変えたものだけで生きてるんだと思ってる。利己的な人が周りに多ければみんなが利己的に振舞うことになって、そういう中で育った人は、世の中は利己的なものだと思っちゃうのが普通じゃない?いやいや、自分のことだけ考えて生きてるったってね、植物は、自然は、自分の過剰さをあなたに提供して生きてるんだよと。

だからね、この詩が僕に問いかけるのは、お節介であれと。とにかく自分がお節介であれば、煙たがられるかもしれないけど、あなたの過剰なエネルギーが誰かに届き、それが誰かのエネルギーになってまた何かが生み出される。そういうことを恐れないでね、と。ですから皆さんも恐れないで、お節介に生きた方がいいよ。

樹木は 育成することのない無数の芽を生み

根を張り 枝や葉を広げて

個体と種の保存には あまりあるほどの 養分を吸収する

樹木は この溢れんばかりの過剰を

使うことも享受することもなく 自然に還すが

動物は この溢れる養分を

自由で嬉々とした 自らの運動に使用する

このように自然は その初元からの生命の

無限の展開に向けての秩序を 奏でている

物質としての束縛を 少しずつ断ち切り

やがて自らの姿を 自由に変えていくのである

フリードリッヒ・フォン・シラー

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