音楽と演劇とカフェ③

イタリアから帰ってきたオペラ歌手が、ボクに、「みんなで一つの歌を歌えるような場所が日本にもあったらいい。それをこのカフェでやれたら」という提案をしてくれたので、「ゲーテ先生の音楽会」という舞台をやったんだけどね。

それは、音楽をみんなで一緒に聴いて時間を共有することで、みんなが仲間であるのを意識することを、もう一回取り戻しませんか?という提案だということに気づいたんだよね。

それはアンチ・イヤホンなんだよ。今のヒト達は、音楽は自分だけのパーソナルなもの、という位置づけなんだよね。

エトワール★ヨシノさんが、なんで囁くように歌わないのかというと、ヨシノさんは、ゲーテ先生の会で、みんなの前で歌う所から始まっているため、イヤホンで聴くことを想定した曲ではないからなんだよね。

古代には、音楽を通して、空間や場所、時間を共有することで、仲間意識を持つというのがあったわけ。それは、だいたいが祭り、儀式のとき。宗教的な音楽で、例えば賛美歌、グレゴリオ聖歌、お経などは、とてもワンパターンなんだよね。繰り返し、パターンが少しずつ変化するのを共有することが音楽だったんだよ。

音楽は、今までは多くのヒト達と共有するためにあったのに、都市化が進めば進むほど、みんなと分断するために存在することになった。ヒトがいっぱい居過ぎると、自分の居場所がなくなるため、ヒトのことが嫌いになるからじゃないかな。

皆、ソーシャルディスタンスを保ちたいけど、それが行き過ぎた結果、孤独を感じているヒトがとても多い。
不思議だなと思うんだけど、珈琲一杯飲むんだったら、カフェじゃなくて自分の家で飲めばいいじゃん。一人になりたいけど、ホントの一人は嫌、静かな所に行きたいけど、ホントに静かな所は嫌なんだよね。

音楽は仲間と共有することも、分断することも出来る。この両方の側面があることを意識して、音楽を作らないといけないんじゃないかと思ったんだよ。

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