自己責任の裏表

自己責任という言葉がありますね。この言葉には裏と表があるんじゃないかと気付くきっかけになったことがあってね。

プレイパーク世田谷という公園を、あるヒトに教えてもらったんだよ。
そのHPには、子どもにもっと自由な遊び場をと。禁止事項をなるべくなくして、焚火や木登りのような当たり前にやっていた昔の遊びを今の子どもにもさせたいという考えのもとに始めたと書いてあった。
そこに掲げられてる看板を読むね。

「プレイパークは自由な遊びを目指して、区と地域のヒト達とプレイワーカーとの協力で運営されている公園です。子どもが公園で遊ぶためには事故は自分の責任という考えが根本です。そうしないと禁止事項が多くなり、楽しい遊びが出来ません。このプレイパークのモットーは、自分の責任で自由に遊ぶということです。みんなの協力で楽しい遊び場を作りましょう。」

と書いてある。とても素晴らしいと思うけど、本来こんなことは当たり前なわけ。
これが自己責任の良い部分。自己責任の良いところがフューチャーされる一方で、その言葉の裏があると思っている。自己責任で好きにやっていいのよと言われても好きにやらないヒトは、失敗した時にそれなりの責任を取らされるってことを敏感に感じ取ってるからでしょ?
全てが自己責任になれば、リスクを避けるという方向に気持ちが動くのが普通だよね。
今は、その責任はオレがとるからまあ、やってみろと言ってくれる上のヒトがいない。実際失敗した時、周りや社会がカバーするから、社会そのものも成長するし、若い子は何かに挑戦してみようと思うんだけどね。

どんな物事にも功罪があるわけで、子どもがジャングルジムで危険な遊びをして何かを学ぶことが功だとしたら、落ちてケガをするのが罪。その罪が一つでもあれば、功であるものの芽を摘んで、ジャングルジムをなくせばいいということにはならないでしょ?

ここなら自由に遊んでいいよ、という看板そのものがない社会の方が良いとは思いませんかね?

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