大衆文化と大衆にも文化

神戸にお店を出して以来、阪急電車に乗ることがあります。車両の作り、色味を含めて何かひとつ、美意識がある気がとてもします。

阪急電鉄の創業者である小林一三さんの哲学が浸透してるのかな、やっぱりよそと違うなと思うね。小林さんの著書を読むと、大衆という言葉がよく出てくる。大衆に向けて、我々は文化を創生するんだと、大衆文化を意識されておられたようなんだよね。

小林一三さんが考えておられた大衆にも文化をというのは阪急電車を見ても非常に感じ入るところがあって、生活に根差す美というのかな。パリやロンドン、ニューヨークの街に走る乗り物の様に、それぞれ、国の文化、民度を計り知れるような大衆の文化があると思うんだよね。

ただ、今の大衆文化という言葉の響きからボクが感じるところは、それはマスメディアを通して広告宣伝されたもの、プロパガンダの意味合いが非常に強いんじゃないかな。いわゆる貴族が楽しんでいたものを一般化していく上で、王制時代に比べて民衆も広く文化の担い手になればいろんなことが一般化していく。つまり、普通であるということ。

この普通というのが大衆文化だとするとね、大衆にも文化をというのとニュアンスが違う気がするんだよ。そこから外れたものは異質であると言って排除するのでは、それは果たして文化と呼べるのか?ましてやアートとは呼べないよね。

それぞれの地域、それぞれの個性が生かされることが大衆にも文化をということじゃないかな。アーティストが、自分の想いを作品に残すことがあったように、一般のヒトたちにもあなたらしい生活、文化を創造してくださいという意味合いで、大衆にも文化をと言われたんじゃないかなと思うんだよね。

大衆にも文化をと言っていた割には、案外今も大衆に文化はない。あくまで大衆というのは、王様や貴族が作った似非カルチャーにお金を払って味わえと、そういう立場のままでいるんじゃないかという気がちょっとだけするんだよね。

なんとなくこの大衆文化という言葉の中に、大衆にも文化とは違う、喉に小骨が引っかかる違和感があるのは私だけでしょうかね。

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