「儲ける」と「儲かる」について

「東京の家賃の高いところで、
たくさんのスタッフを使ってカフェをやってる?
へへへ、大変じゃないですか!?
どうやったって儲からないでしょう」

そうヒゲを撫でるおじさんが、

ボクにニタニタと話しかけました。

ボクは小さく咳払いをして、

「いやいや、そうでもないですよ」

「えっ、儲かる?いやいや無理でしょう、
どうやって儲けるんです?」とおじさん。

かちんときた。
頭にきた。
それでボクはこう言い返した。

「儲かるとは、ヒトに信頼されると書きますね。
ボクはヒトから信頼されるよう日々努めてます。
偉そうに言ってるだけで、実際はなんにもやらない、
そんなみっともないまねはしない。
批判はするけど、自分は汗をかかない、
なんてヒトにならないよう努めてます。

あなたのように、デリカシーのない方は、
「儲ける」ことはできるかもしらんが、
「儲かる」ことはできないんじゃないですか」

そしたらおじさんめ。
顔から湯気を吹き怒り出し、

「なにをこの若造、テメェ、コンニャロ、コンチクショウ」
「やるか、望むどころだ」
ボクも応戦して大騒ぎに。
周囲の女の子がキャーワー、と割って入ってくれ、
なんとかその場は収まりました。

血気盛んだった若い頃は、たびたびこんなことがあったっけなぁ。

さて。

ドイツの文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、
彼は書物の中でこう言っています。

「二つの平和な暴力がある。法律と礼儀作法だ」

法律とは、暴力からヒトを守るためにあるように思うけれど、
その法律そのものが暴力なのだ、と。

かのゲーテが言ってるのだから、そうなのでしょう。

かのとは、作家や詩人から始まり、科学者、芸術家、
さらには政治家にまでなったゲーテが言うのだから、
人間が集まれば綺麗事では済まず、
法律と礼儀作法というオブラートに包んだとしても、
暴力なしに人間は人間を収めることができないのだ、と。
もっと言えば、善意と悪意は同じコインの裏表なのだ、と。

もうひとつゲーテは、こんなことも言っています。

「革命以前にはすべてが努力であった。
革命後にはすべてが要求に変わった」

革命を起こす人間の苦労は美しく純粋なのだ。
しかし、それを成し遂げたあと、
人間は要求という汚い行為に墜ちてゆくものだと。

女の子たちが、
「もう喧嘩はやめてちょうだいね。
喧嘩は嫌だからね」とボクに念を押します。

「はい、そうですね」とボクは答える。

東京でカフェを構えているせいで、
そうもいかぬ人生を歩んでいるけれど、
ほんとはさ、
日々を丁寧に生き、あまり世間とも交わらず、
自分とほんの一掴みの気の合う人間との暮らしを、
過ごして生きていけたら、
そいつは、さぞかし幸せだろう。

平和で愛に満ちた革命、
そんなものは幻想に過ぎぬと、
切り捨てたゲーテが死んでから190年。

誰も切らぬ刀を毎日研げる強さを、
手にすることはできるだろうか。
ボクが死ぬまでのあいだに。

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