春は出会いと別れの季節といいますが、生きていれば年がら年中、出会いと別れがあるものです。
井伏鱒二の有名な言葉に、
花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ
というのがあります。
まぁ、この世は別ればかりなのだから、いつまでも悲しんでないで、酒でも飲んで笑い飛ばそうや。そんな大らかな印象がこの詩にはあります。たしかにくよくよしていても仕方ありません。
でもですね。その井伏鱒二を受けて、寺山修司がこんな詩も残してる。
さよならだけが 人生ならば
また来る春は 何だろう
さよならだけが 人生ならば
人生なんか いりません
たしかに、簡単に笑い飛ばそうと思っても、なかなか、いや永遠に乗り越えられない別れもあるものです。
たとえばそれは、信頼していたヒトに裏切られた別れとか。
みなさんは信頼するヒトに裏切られ別れたとしても、さよならだけが人生だ、と笑い飛ばすことができるでしょうか。
ボクはできません。
裏切られた(本人がそう感じている感じた)場合、ボクだったら色々な気持ちを持つはずです。
なんであんな人を信頼してしまったんだと自分の甘さを責める。「ああなんと無知」、「ああなんと世間知らず」、「ああなんとお人好し」。そしてもう二度と人間を信頼すまいと誓うでしょう。自分一人で生きていこうと、どこか人知れずの土地に向かうかもしれません。そして新しい出会いがあっても距離をとり、二度と心を開けないよう意固地になる気もします。
人に甘えず、助けも求めず、裏切られるくらいなら孤独を取る。そんな作戦ですね。
裏切ったヒトを思い出したくない。だから、そのヒトのいるところ、いそうなところには近づかないようにしよう。そんな風に思ったりもするでしょう。
とにかく思い出したくないから、匂いのするとこは避けようとするかもしれません。
ボクはマメヒコピクチャーズとして、何本も映画を撮っているのですが、そのひとつに『さよならとマシュマロを』という作品があります。
主人公の男性は、カフェの店主です(舞台は三茶のマメヒコです)。彼は信頼していた父親に捨てられ、孤児院で育った経験がある。
店主は大好きだった父親が自分を捨てたのは、止むに止まれぬ事情があったんだと思い込み納得して育ちます。
きっと、子供の自分には計り得ぬ事情が父親にはあったんだ。
少なくとも子である自分を、なんとなく邪魔だから捨てた、という風に思いたくない。自分が負った心の傷と同程度の傷を父親はいまも負っているんだ、きっと。後悔しているだろう。だけど安心して。ボクはお父さんを許してる準備があるんだ。
それはまるで物語です。少年は物語を作り、思い込むことで、なんとか平静を保ちおとなになったのです。それがある日、信頼していたスタッフの突然の退店で、トラウマがよみがえってしまう。
そして、ここはファンタジーですが、突然捨てた父親が幻想としてカフェに現れる。店主はますます混乱する。
あからさまに誰かに裏切られた経験は、ボク自身はありません。ただ想像するだけでも、胸押しつぶされる思いがある。
この映画の中で、ボクは劇中歌を作りました。『始まりの別離』です。今週末のエトワール★ヨシノのライブでも歌います。
ボクはこの映画を作りながら、ヒトは絶望の淵にあったら、なにかしら自分を肯定する物語を生み出すものだと考えました。そして、それは裏を返せば、どんなに逆境でも物語にすがればヒトは生きていけるものだ、と表現したかったのです。
物語は無気力になり、生きていく気力がわかなくなりそうな自分を生へとかき立てる。そういう力を持つものだと今も思います。