「事実」を自分なりの解釈で、
自分の都合の良い物語に置き換えることはとても大切です。
はたから見れば不幸つづきに見えたとしも、本人が納得して、
幸せですけどなにかと言い切れるなら、それは幸せなのですよ。
逆を言えば、「感情」が先走ってしまって、
どんな「事実」も悪いよう悪いよう読み替えてしまうなら、
そのヒトは一生不幸ということになります。
幸福は「感情」が決めるということですな。
さて、自分の身の回りに起きていることのなかで、
なにが「事実」で、なにが「感情」なのかは、
案外自分ではわからないものです。
渦中のヒトというのは近視眼に物事を見てしまうからでしょう。
ですから、「事実」と「感情」の見極めは、
一人では難しいかなとボクは思います。
なので、「客観的な目を持つ周囲」が必要なわけです。
えー、ボクもですね、
ごくたまに相談を受けることがあります。
気をつけて、こんがらがっている相談者の頭から、
「事実」と「感情」を整理し、
それをそのまま伝えています。
できているかはわかりませんが、そうしようと努めています。
ところが、相手によってはなかなか納得しないヒトというのがいます。
「あなたのそれは『感情』であり、「事実」ではないですよ」と何度整理して伝えても、
「いやいやこれらはすべて『事実』なのだ」と言い切られてしまったりする。
そしてそれはあくまで「井川さんのご意見」でしょと言われたりします。
んーーーーーーー。
こういうケースの場合、
相手はボクに相談しているようで、
実際は、まったく聞く耳を持たないわけですから、
こちらとしては放っておくしかないわけです。
とことん、ほっときます。
漬物と同じです。
さて、しばらく経って、どうなっとるかいなとコンタクトを取ってみます。
往々にして人間の場合、「なにも変わっていない」という感じです。
漬物とは違うんですね。ふむふむ。
あれからの経緯を尋ねてみると、結局のところ、頭の中で堂々巡りになり、
「なにもしない」という選択肢を取ってしまったというんですね。
そしてより一層、事態は深刻になり、
本人は困ってしまっている。
なんてことがあると、胸が少し痛みます。
「それは困っているふりしてだな、実は困っていないのだよ」
そんな解釈もできるかもしれません。
また一方で、
「ただのかまってちゃんなだけだから、
少しかまってやればそれでいいのよ」という解釈もできる。
世間とは世知辛いもので、
どちらにせよ、こういう人間と関わってもろくなことはないからほっとくべし。
触らぬ神に祟りなし。
それが、古今東西の処世術でしょう。
ボク自身の経験からしても、そう思いますね。
ほっといたほうが良い。
関わるならとことん関わらないと、
軽い気持ちで関わると、ともに溺れます。
ただね。
ただですねーー。
ボクなりにひとつ注釈をつけるとすればですね。
あっちいけ、あっちいけ、と放っても、
なぜか気づけば横にいるという縁が少なからずあることは間違いありません。
これはまことに不思議な縁でして、
山に返したつもりの野犬が、
家に帰ると何食わぬ顔で餌を食べていたりするような感じです。
ボクもそういう経験がいくつもある。
(野犬はものの例えです笑)
縁とは不思議です。
ほんとうに不思議。
不思議な縁とつながるほどに、
科学なんてものが万能などと思えなくなるのです。