長テーブル
みんなが集まれるような場所を作りたいっていう声を、ボクは時々聞くんですよね。
小さい時にみんなが集まってわいわいしているのを見て育った子どもが、大人になってもそんな場所があるといいなと思い描くんだろうね。
だけど時代の変化もあって、そういう場所は自分で作らないと、無い。
特に、地方は過疎が進んでいて、かつての賑やかだった面影が、その街のあちこちに残像として残っているだけで。
純粋なヒトには、その自分の中の幻影をなんとか取り戻したいという気持ちがあるのかな。
でも、年配のヒトは、地方のしがらみを経験しているから、田舎のしがらみはとてもこわい、ああいうのは本当に面倒くさいんだと言ってるわけだよね。
じゃあ、ヒトは集まった方がいいのか、集まらない方がいいのか? と考えると、ヒトは群れずにはいられないと思うんだよね。ヒトは、もともとは、近くにいてもいがみ合って暮らしていたわけではないと思うんだ。
特に農耕民族であれば調和しながら生きていかざるを得ないので、礼儀がある、老人を敬う、男を立てる、とか、今も残っている道徳観が生まれたんだと思う。
でも、若い人にはその経験がないからね。なんとなくコミュニティ良いですよねって作ってみたものの、そこで人疲れして、却って人嫌いになる人もいっぱいいるものね。
そうではなく、うまいこと仲良くやりながら自分なりの場所を作るなり、実現してもらいたいと思います。
人が集まるという時に、皆で長テーブルを囲んで何かするというのは、いいよね。
渋谷のカフエマメヒコの長テーブルが、北海道の月形にお嫁に行ったんだけど、そのテーブルがそうしたことにちょっとでも帰依できるのなら、もともと作った意味みたいなことも含め、本望じゃないかなと思ったりします。