知識か肚か
知識か肚かということを最近考えます。
知識は本を読めば入ってくる。ただ、知識が頭に入れば入るほど、臆病になるということがあると思うんだよね。子どもの時のように、知らないが故のパッションに突き動かされて行動することがあったり、後から思えば若気の至りで見境なくやったなと思うような事があるんじゃないかなと思う。
テレビや新聞などのマスメディア、広告といったものは、知識を与えるとともに不安を煽ることもあるよね。そして、不安から逃げ惑うヒトたちの受け皿が商売の種となったり、それがスポンサーになるためのお金となったり、不安を媒介に利益がぐるぐると回っている。
今暮らしている自分の周囲のヒト達、多くのヒト達は、不安があったら怖がるし、逃げ道として提示されたものに飛びつくし、みんなでそっちの同じ方向に行くことで安心感を持つ事が多いね。普通のヒトは、そうだと思う。
だけど本なんか読むと、不安に思う事に向き合って、きちっとした考えを持って、自分の道、生き方を貫き通す人が時々いる。そういう人は肚が据わっているよね。
自分が、物を知らないのは恥じる事でもなんでもないと思う。それよりも、肚が据わっていることの方が大事。
昔の日本人は肚が据わる、肚が決まると言ってたけど、お腹の中に何か大事なものが留まっているという感覚があって、肚の中には魂とか愛情が宿る、その宿る場所を切るという形で切腹があったと本で読んだけどね。
肚が決まるためには誰かに感化されるという事が必要だよ。そういう人がいるんだ、じゃあ、ボクもそうしよう、というね。肚が決まったヒトの姿勢、背中を見るということで自分の肚が決まることがあると思う。