別化性能と類化性能という言葉があります。
これは民俗学者の堀口信夫さんという方が言っておられることで、同じ様に見える中に違いを見出す力、これが別化性能。違って見えるものの中に同じ様なものを見つける力、これを類化性能と言うんだよね。
例えば、お餅と布団はどっちもふかふかしている、月と女性はともに満ち欠けをする。その心は…というように同じ様なものを見つけるのが類化性能なわけ。
世の中的には、学校の試験など、ありとあらゆるものがAとBの違いを説明する別化性能の能力が重視されているわけ。CMがまさにそうで、他社との違いを強調して差別化することで商品を売る別化性能が非常に求められている。
ボクがたまに話す「自他不二」は、自分も他人も二つではない、自分は他人で他人は自分なのだという感覚であって、類化性能の能力だよね。
別化性能の知識を鍛えていくと、自分と他人は違うという意識になる。結果的には、ただ知ってることだけを生かして、機械的に何かをこなしていくという人間が出来て、孤立する。
いろいろ違いのある中で、共通点を見出す類化性能、これは感覚的なものなわけ。何かに同化、憑依するという能力は非常に大事じゃないかな。
人間は違って当たり前、他人は自分の写し鏡という感覚があるわけで、自然も自分の一部で、自分の中に神様がいるのか、神様が作った中に自分がいるのかは分からない。
とにかく、いろんなものを包括していくことが必要で、思いやりや道徳を強調すればするほど、別化性能に鍛えられたヒトは理解できない、よく分からないということが起きるわけ。
同じものの中に違いを見つける、違うものの中に同じ物を見つける、という人間の中に持っている別化性能、類化性能のバランスはとても大事じゃないかなと思うよ。
ものを売らんかなの為に、社会全体は別化性能の方に過度に振ってるんじゃないかという感覚からすれば、あれもこれも同じであるという類化性能の能力が求められてる気がしますがいかがでしょう?