先日、玉川学園の街の課題を話しあう会のゲストスピーカーとして参加した。
ボクはコンサルタントではないから、あくまで自分が経験したことの中からこう考える、ああ考えるということしか喋れない。だから、近しいヒトはわかっているからいいけど、遠くのヒトに何かを届ける時には、ボクの考えてることは届きにくいんじゃないかな、と、思ったりする。
一方で、遠くにまで話を届けられるヒトは、自分の生活とは無縁なヒトが多い気がするんだよね。そういうヒトたちの生活を見ると、生活に根付いてないというのかな。知識の中でバトルしてるという気がする。
考える基礎は生活にあるとボクは思う。
持っている知識から思考することはできなくて、思考は生きている自分の生活から生まれるんだと思う。研究室で本を読んでいるだけのヒトや、コンビニと仕事の往復の中で考えているヒトの思考は貧弱ではないかという気がするんだよね。
知識の中からものを考えるよりは、生活の中からものを考えることが出来るわけで、ボクならカフェをやっている日々の生活の中から出てくる思考であり、森に行って木を切っているヒトの思考や、海に行って魚を獲っているヒトの思考は、そのヒトの生活が思考を作るわけで、それぞれ違うと思うんだよね。
自分の生活の中から出てきている思考、生活が考えることの基礎だなとボクは思う。
いろんなヒトの意見があっていいというのは、いろんなヒトの暮らしている生活から出てくる言葉や考えを尊重しましょうよということ。
自分の生活をどうやって捉えるか?東京だと生活の実態がないヒトもいるよね。お金だけが頼りというね。
専業主婦で子どもがいた場合、子どものために社会はこうあって欲しいという考えが出てくるし、いろんなヒトのいろんな考えを尊重するということ。
生活において自分で何かをやってないヒトは批評家になってしまうことが多い気がするね。自分で子どもにご飯を作ってないとか、自分で醤油を買っていないとかね笑。