今、日本中が優等生という感じになっているなと、思うんですよ。
若い子も礼儀正しくて、テレビもコンプライアンスもしっかりして、ルールは守りましょうという世の中になっているよね。
優等生であるというのは、果たして真面目なのか?臆病なのか?
ボクが知っている優等生は、往々にして臆病なヒトが多いという気がする。規則を破って責められることが怖いのかな。
だから、逆に言えば、ルールを破ってまで、何かに情熱をかけてこなかったヒトたちとも思うんだよね。
臆病って、結果的には何も生み出さない。
今、糸島にお店を作ってるんだけど、法律の中で何かをやろうというのは、それだけ情熱が薄いということだから、何も成さないよな、というふうに、糸島で長くやっているヒトたちを見ると思ったりする。
自分の情熱が先にあって、その後に法律ができてくるわけで、例えばビールも、第三のビール、発泡酒が先にあって、後から税金を取るために法律が出来たように、法律はヒトの情熱の後に追っかけてくるものなわけ。
孔子的な思想と、老子的な思想という観点で言うと、孔子的な優等生というのは規範やルールを守り、それに従って行動する。そして自分というものを常に反省し、周りと外れてないかを常に気にするのが孔子的な思想だとすれば、老子的な思想というのは、根本的に自分がやりたい気持ちに従うということ。自然に湧いて来る、やりたい気持ちに従って行動するのが大事だよ、と。
細かな規範とか礼儀とかを遵守することで、自分の中の湧き上がる自然な気持ちが薄れてしまうと、どうしても偽善的になり、偽りの行動を伴っちゃうと、老子は言ってるんだよね。
孔子が言うように、世間の強い軋轢と、自分の中のパッションとを擦り合わせることって、現実的に出来るかな?
自分の純粋な気持ちが伝わることが大事なんだと言うヒトに会うと、こうやって物事は進むし、燃えたぎる何か、何かを生み出したいという気持ちは、礼儀や規範を守ることを第一義にしている社会では、生まれないんじゃないの?って思う。
だからやっぱりボクは孔子よりも老子的な考え方、自分のありのままの気持ちというのものを、まず、先に持つヒトでありたいなと思うけど、みなさんはどうでしょう?