縛って耐える守って

以前、「チキン」というお芝居をやってまして、これはとても皮肉な現代風刺のボクのオリジナルの本なんだけどね。

「1984」というジョージ・オーウェルのSF小説で、共産主義を揶揄した本があってね。全体主義国家になって、ヒトビトが縛られていくという話。

要は家畜というものと、今の現代の資本主義を含めた社会システム、共産主義を含めた人間の在り方、みたいなものの怖さを書いているわけ。

ボクの書いた「チキン」の本の中には、縛られていた鳥がブロイラーとなって、ゲージの中で飼われている。

解放して欲しいと思う一羽の鶏がいて、ゲージを壊して外に出ようするんだけど、外に出ると、餌もない、飛ぶことも出来ない。

それなら、ゲージの中に戻った方が良いんじゃないか?という話。

これはなんなんですかね?

私のことを縛って欲しい、拘束して欲しい。

その拘束に対する、痛みや苦しみは耐えるけど、その代わり、餌を与えてもらうなり、人間で言えば、お金をもらうなり、と言う形で「縛って耐える守って」ということが、人間の根幹にはあるんだね。

人間という社会的な動物は縛ってもらって耐えるのがとても得意だよね。縛って耐えることに対して、さほど抵抗がない。

これは、脳が発達して、共感意識がとても強いのかな。

「縛って耐える守って」ということは人間の性でどうにもならない、むしろ良いこともあるわけだよね。縛られもせずに守ってと言うのは無理だと思うけど。

人間は自由なんだから、縛ってはいけませんよというような風潮については、ボクはどうなの?って思うね。

ゲージのない野生の鳥になる強さを持っているヒトや、縛る・耐えることを否定する考えのヒトも中にはいるけど、多くのヒトは縛って耐える、だから守ってと言うのが根幹にあると思うんだよね。

だからこそ、学校、法律、税金、国家の縛る側のモラルが大事。一番最悪なのは縛って耐えてもらって、けど守りませんだよね。これは今の政治、今の政府、今の上のヒトたち。こういうのは、どうなんでしょうか?

縛って、耐えさせておいて守らない・・・。うーん。

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