無明について

自分の本質がわからない、自分というものが何をしたいのか、どこに向かっているのかわからない、そういうヒトを仏教用語では無明というんだよ。

この無明なヒトってかなりいる。

無明になった原因を色んなとこに探したくなるけど、原因はあってないようなもので、それがわかんないこと含めて無明なんだと思う。

ヒトっていうのは、そもそもなんで生まれて、なんで死ぬのかという問い自体に答えはない。でも、なのになんでこんな苦労しなきゃいけないのかと考える。

辛い世の中で頑張る時に、頑張る動機つけは必要だよね。

環境を変えてもなかなか良くならないのは、自分の中で怖いから目を瞑っちゃう、つまり、自分の中で目を閉じてるということ。心の目を見開くためにはどうしたらいいか。こういう無明なヒトたちを救うとなると、神、信仰心しかないんじゃないかな。

自分を知るのが知恵。知恵を持つには修行しかなくて、修行とは何かといえば、色んなヒトと関わって何かを継続的に続けていくということ。何かを信じるということ。

そこに意味なんか求めないでとにかくやってみる。

今は社会に出ることが女の子でも当たり前で、若い時は自分が何者で、どうやって自分をプレゼンしていくのかが絶対に求められる。そういう時に、上手くやれたかどうかをモチベーションにしちゃだめだと思うんだよね。

下手だろうがなんだろうが自分の中でこれはやるいうことを決める。

上手くできなければそれをやらないで逃げるしかないとするヒトがいるけれど、でも逃げちゃうと目は開かない、自分を知るのって逃げないということだよね。

仕事は資本主義だから効率を求められるけど、それとは別に自分の時間を持って、そこでは自分を知るということが必要。

そうすることでしか、閉じてる目を開くことは何人たりともできない。

やっぱりそれは神のみぞ知ることができることなんですね。

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