「北海道に広い畑を借り、そこに東京のスタッフが住み、
そこで採れたものを東京のカフエで使う。
それを、ちっぽけなボクらカフエがやる。
そのことをボクらはハタケ マメヒコと呼ぼう。
そのことはきっとなにか意味があるにちがいない」。
漠然とした確信を持った「ハタケ マメヒコ」の2年目の夏が終わろうとしている。
食糧自給率が年々下がりつづけている。
食べものそのものに関心を持たない若い人たちの増加。
遺伝子組み換え作物の是非。
農薬や除草剤の過剰な散布。
食べものを扱うボクらが食べものを作ってみたいと思うことは自然なことであり、
むしろそこからやってみないと、
取り巻く問題がなんなのかすらわからない。
声高に批判に唱和しても、意味がないじゃない。
農の仕組みを変えなくては何も変わらない!!!
農に対する行政の取り組み方や法規制を変えるための一票を!!!
世界へ競争力を持ち得た大規模農業の推進策!!!
大きなことはボクらのできることではないし、
今のボクらにできることは、関心の少ない広い広い裾野に、
広く低い間口を持つカフエとして
小さな参加を提案、提供すること。
そういうこと。
そういう考え方。
そういうマメヒコのイデオロギーに。
表に裏に共感してくれるヒトたちが大勢いてくれるんだと思う。
だからこそ、ボクらはハタケ マメヒコをやれているんだと思う。
ありがとう。ありがと。
けれど。
けれどね。
ハタケでは毎日ひっきりなしに問題は起きているんだよ。
気持ちを削がれるようなことがいくらでもあるんだよ。
青い空の下でへこんだりしてるんだよ。
途方もない気持ちで夕焼けを見ているんだよ。
共感してくれてたヒトたちに気持ちは削がれてしまうんだよ。
そういうことに意外なほど、・・・・ボクらは弱い。
缶詰が。
ぽつりとテーブルの上にひとつある。
美味しそうな白桃の缶詰。
これを食べたい。
缶切りを探そう。
たしか引き出しの奥に、
・・・あった。
刃を前後に当ててみる。
切り口からシロップがあふれ出す。
手を切らぬよう用心してふたを開けよう。
桃を取り出さなくちゃ。
フォークがいいかな。
箸のほうがいいかな。
小さなトング?
シロップはスプーンを使おうか。
いっそ、ボールに全部空けてしまおうか。
口を付けたら唇を切るよ。
取り皿がいくつもいるね。
缶詰を食うとき。
空けるには缶切りがいる。
けれど空いてから食うには別な道具が要るんである。
堅い缶を空けるために「共感」という缶切りがなければ缶は開かない。
それはそうなの。
けど、空いたとしても、缶切りで中身は食べられないんだよ。
そのことをボクらはことあるごとに思い出さなくてはならないと思う。
中身を食べるには、缶切りとは全く別の道具を用意しなくてはならないことを。
どこにいても同じだと思う。
再就職しても、結婚しても、
缶を開けるのと、中身を食べるのは別。
食べ続けるにはいくつもの道具を用意する必要がある。
開いてしまえば缶切りは、引き出しの奥にしまっておけばいい。
残暑厳しいけれど、みんなは元気にやっていますか?
やっててほしいよ。