昨日も面接があって、ずっと事務所で応募者を待っていたんだけれど、
結局、来なかった。
約束の時間になっても来ない。
連絡もない。
連絡なしのドタキャン。
こういうことは、まぁまぁよくある。
最初の頃。
面接をドタキャンするヒトなんていないと思っていた。
応募資料には熱い応募動機が書いてあるんである。
かくかくしかじか。だから是非一度、このワタシに面接の機会を。
そうですね。では一度、お会いしましょう。
場所はこちらで、履歴書をご持参の上お越しくださいませ。
ではでは、と何回かのやりとりの末、来ないんである。
こちらは「道に迷ったかしら」。「途中で事故にでも遭ったんじゃないかしら」。
とそんなことを本気で思って心配したりも、した。
した、んである。
いまは、しない。
それは、何年も同じことをしていくうちに、
一定の割合でそーゆーヒトがいることを知ってしまったんである。
まぁそんなモンだよね、と思ってしまったんである。
一度傷ついたことをそんなモンだよ、としてしまえば、二度目は傷つかない。
自分なりの予防線を張っているんだと思う。
男の人に裏切られたヒトは、
男なんてそんなモン、と予防線を張り、
会社に裏切られたヒトは会社なんてそんなモン、
お客なんてそんなモン、世間なんてそんなモン、政治家なんてそんなモン、
都会なんてそんなモン、テレビなんてそんなモン、
そうやってそんなモンをいっぱい作ることで、
もう二度とボクはワタシは、
誰かに期待したけどあっさり裏切られた馬鹿な自分、
にはならない。
結果として、そんなモンという予防線がほどけない釣り糸のように、
この国にまとわりついている。
そうじゃなきゃやっていけない。
そりゃそうだよ。みんな臆病者だしね。
けどね。
こういう希望もあると思うの。
一定の割合で、裏切られる。傷つく。
これは割合である。確率なんである。
ということは、一定の割合で「裏切られることを裏切られる」、
ということもまた真なり。起こるんである。
そんなモンだと思っていたけど、そんなモンじゃなかったということが、
起こるんである。
それを幸運とか運命とか呼ぶかは、ヒトそれぞれだし、
ボクは幸運とか運命とかすぐ言うヒトをあんまり好きではないけれど。
世の中また捨てたモンじゃないというのも確かなんである。
そんなモンと世の中のすべてに高をくくり何もしないヒトは、
大きく傷つくこともないかもしれないけれど、
雨上がりのアスファルトに蒸気が立ちのぼり、
逆光でキラキラ光る小道を歩く高揚感もまた、
失っているという気がするんである。
希望は捨ててはいけない。