いまボクが取り組まなくてはならないこと/第4回 せまい控え室を飛び出して

 数えてみると、この8年間、引越しをしない年はなかった。外国に住んでいた2年間で3回、帰国してから自宅を2回、オフィスは3回、お店の開店が2回。年に1回以上は○○から××へ移っている。引越しは年明けの寒いある日に突然思いつく。そして、暖かくなる前に絶対に終えたいと勝手に焦る。ボクの場合、引越しと季節は大きく関係している。春風に霞む桜道は新しいところで迎えたいのだ。

 横浜の郊外にあるオフィスを三軒茶屋へ移すことにした。引越しはあした。教会の下で、もとは幼稚園のプレイルーム。そこが新しいボクらのオフィスだ。

 あと何度、季節が巡り、ボクは引越しをするのだろう。

 小さな飲食店では控え室なんてほとんどないですよ、と聞いて当時は驚いた。三茶のマメヒコの設計をしていたときのことだ。スタッフはトイレで着替えればいんだという多勢の声に、狭くてもいいから更衣室は必要です。そう無理言って、なんとかたたみ一畳を確保した。椅子も置けず、脚立が椅子代わりの一畳である。それでも、こういうもんだと思えば、一畳はそれなりに十分で、着替えもすれば、食事も取るし、事務仕事もすれば、寝たりもできる。冷えた脚立に座り、マメレットを焼くスタッフを眺めていると、人間の幸せとは多くを望まないことかもな、と思ったりもする。

 でもやっぱり寒いある日。ボクはオフィスを移転しようと突然思いつき、散々探した挙句に、三軒茶屋の店の近くをみつけた。テレビ番組を作っているスタッフも、マメヒコで働くスタッフも全部そこにまとめてしまおう。同じ会社で違う職場環境のスタッフを同じところで働かせよう。天然酵母の発酵具合を気にしているかたわらで、新年度の番組制作の進行を考えている。珈琲がふたつを繋ぐ。

 ボクはいま考えていることがある。それはマメヒコを色々なところでやれないかと。

 渋谷のお店も三軒茶屋のお店も、ともに移動することはなく、常に同じ処、同じ時間に開いている。それは大事なことであるし、それは安心なことだ。けれど。お店に来れないヒトがいる。来たくても来れないヒト。お店そのものを知らないけどきっとマメヒコが好きになるヒト。マメヒコを必要としているところはきっと、いっぱいある。

 打ち合わせで煮詰まったテレビ局の会議室。ここに、珈琲やお茶を届けよう。その場で豆を挽いて、その場で淹れたら楽しいだろう。ペットボトルのお茶では果たせなかった企画の突破口をマメヒコが開けるかもしれない。無駄に長い打ち合わせがマメヒコさんが来たおかげで短くなって、とても節約効果がありました。とプロデューサーからほめられたらうれしい。焼きたてのマメボンを持っていってもいいし、簡単な食事を作ってもいい。テレビや映画のロケに持って来いと言われるかもしれない。スタッフはアタシがいく。ボクがいく!とはしゃぐだろう。気軽に頼んでもらえるように、色々と準備をしなくてはならない。

 マメヒコが必要なのは職場だけじゃない。桜が満開の鎌倉のお寺で坊さんの説法のあとに珈琲を淹れるというのはどうか。珈琲説法。茶室があるお寺では、和服を着て正座してみなさんに茶法で珈琲を愉しんでもらう。鉄鍋からお湯をひしゃくですくって珈琲を淹れる。茶室が珈琲の匂いでいっぱいになる。和菓子とは豆のお菓子だから深煎りが合うはずだ。茶せんでフォームミルクを点てる。馬鹿馬鹿しくて、ちょっとおかしい。春にはハルの、夏にはナツの、秋にはアキの、冬にはフユの、マメヒコがある。そこそこへと出かけてゆく。桜の下のハルヒコ、海のそばのナツヒコ、落ち葉踏むアキヒコ、雪降る街のフユヒコ。ハハハ。おまえが行かなくても、すでにそういうところにはカフェがいっぱいあるんだよと笑われるかもしれない。そうですね。ケータリング珈琲というサービスも割りとよくあるもんな。

 でも。ここはどうか。たとえば老人ホーム。

 かつて珈琲をサイフォンで淹れていた彼がいる。ここに来て2年になる。かつてアールグレーが好きだった彼女がいる。足が悪くて車椅子だ。彼らは外出許可を取り、どこにでもいける。マメヒコに来ることだってできるだろう。縛られているわけではない。いくらだって自由だ。窓の外の梢から漏れる日差しを顔に浴びながら、車椅子で童謡を歌っている。あまり迷惑をかけたくない。美味しい珈琲が飲みたいと思うだろう。アールグレーが忘れていた何かをよみがえらせるかもしれない。若い頃、夢中になった香りは、きっと頭の奥に残っている。おばぁちゃん、紅茶が飲みたきゃいつでも外に出してあげるよ。いつでも言ってよ。 ありがとう。結構よ。これ以上、迷惑をかけたくないわ。今でも十分幸せ。今でも十分幸せよ。

 ボクらにできることはなにかないか。

 珈琲好きのボクが死んだら、葬儀に集まってくれたヒトたちには美味しい珈琲を出してあげたい。寒い日なら、カフェオレも選べるようにしてあげたい。冷たい仕出しにペットボトルではせっかく来てくれたのに申し訳ない。お葬式にマメヒコ。

 今日もマメヒコは、いろんなところから、大勢やってくる。ふらっと寄って、めいめい扉を開け、ちょこんと座りオーダーをする。手に入れたお金は自由に使い、手に入れた時間は自由に割く。そういう当たり前がやがて出来なくなるときが来る。必ず来る。老いた祖母の濁った瞳と歯のない口が、面会時間の迫るボクになにかを伝えようとしている。

 おせっかいはしたくないけど、ボクらにできることはなにかありませんか。

 せまい控え室を飛び出して。

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