ボクのことを、宇田川の閉店に合わせて、梅田くんが記事にしてくれました。
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梅田くんが言うには、こういう記事は、バズりにくいんだそうです。
まぁ、そりゃそうでしょう。
ただ。ボクはなんでこういう記事を梅田くんが書いたのかということを考えます。マメヒコと井川さんを、世間に紹介したいという好意はもちろんとして、それだけではないという気がする。
梅田くんか言うには、若いヒトたちの間で、最近『エモい』という言葉があるらしい。エモーショナルが語源で、「これって、感情に訴えるよね」、という感じで使うそうです。
この記事はボクのインタビューに寄せてるけど、梅田くん個人の気持ちも赤裸々に告白しています。そこはとても『エモい』です。
こういう事があると思う。
「『自分の興味なんか捨てて、バズらせる』、それがプロのライターだぞ」と示すプロライターがいる。そうですよねと履き違えている若者がいる。
そんなとき、ひとりの年長者が、
「いやそれは早合点だよ。たとえ公器な媒体であっても、自分の気持を吐露したっていんだぞ。いや、そういう自分の気持を吐露するようなことがなくては、書くというのはただの苦しみでしかない。苦しいばかりで楽しいがなければ、一介のライターとしてやっていく意味などあっという間に見えなくなってしまうぞ。それはとても危険なことだよ」。
梅田くんは、自分に続く誰かにそう示してる気がボクは勝手にしたんです。
ボクがテレビの仕事をしていた時、そう示してくれる年長者が身近にいたら、ボクはテレビの仕事を辞めていなかったかも知れない。
そんな言葉がなくても孤高に戦っているヒトこそがプロだと言われれば、そうなんでしょうけど、作るということはセンシティブで、生々しいものだと思う。
こんなもんでしょ、と割り切ってしまったら、愛情を失くしてしまったらという言い方でもいいけど、どんなものでも生気を失ってしまう思う。
それは家族関係でもそうだし、恋人関係でもそうだと思う。
年長者がファンタジーでも『希望』を指し示すことはとても大事だと思う。それはだめ、あれはだめと現実を示すばかりで、『希望』を示さなければ、若者は『希望』をどこか他の場所に見出すか、『希望』なんてありゃしないというヒトだけが遺り、やがて自分たちの場所を傷つけるようになることは歴史が証明している。
『希望』を示すのにかかるコストは、自腹で持ち出しになってしまう時代かも知れないけど、そのコストを惜しまなかった梅田くんに、ボクは感謝申し上げたいと思っているのです。