日本でそのころシャンソンといえば、敗戦後の占領軍の進駐ソングみたいなもんでね。
ジャズとかと一緒くたになって、目新しさはあったけど軽い流行歌って感じだった。
嫌いじゃなかったけど、ふーん、っていうくらいでね関心なかったの。そもそも音楽にあんまり興味なかったのよね。まだまだ敗戦の匂いが強かったし、歌に浮かれてる場合じゃないと思ってたのね。
横浜にもいくつもジャズ喫茶やら、シャンソン喫茶ができてね。
学校の先輩に誘われて何度か通うようになったの。
シャンソン喫茶に出入りしてたヒトの中にはすっかり、フランスにかぶれちゃったヒトもいたりしてね。ボンソワーなんて言っちゃってるんだたけど、ソファーでお汁粉すすってんのよ。
田吾作のなにがトレビアンだ、って馬鹿にしてたわ。わたしは、二十歳になったら家を出ようって決めてたからね。とにかく働けるところを探してたのね。それで、ジャズ喫茶でアルバイトみたいなことをしてお金を貯めてたの。
そしたらたまたまそこで知り合った声楽家の男性が、今度フランスで音楽コンサートを企画してるから通訳として同伴してほしいっていうのね。彼は向こうにしっかりとした人脈があって、家だのなんだのはみんな用意するから、体一つできてくれればいいって。
フフフ。今思えばそんなうまい話ないんだけど。それは若い女の子の特権よ。気が合ったのね。
私はそれほどでもなかったなんて言ったら怒られちゃうけど、なにより少々危険な目に遭おうが家を出たいという思いのほうが強かったのよ。
そんなこんなで、23のときに家を出て、フランスに行ったのね。向こうでは彼について歩いて、いろんな音楽を聞いたわ。それで夜になってカフェに入って、ワインを飲んで酔って彼が言うのよ。
「ヨッチャン、日本には未来があるのさ」って。
今の日本は、敗戦のあとで、悔しい思いをして、外国のものまねを余儀なくされてる。だけど、いつか世界のヒトが胸を打つ音楽や文化を、ボクたちの手で発信しよう。そういうのよ。
私はふーんて聞いてた。そういうことを本気で思ってるヒトが、世の中にはいるんだってことに驚いたのよ。
ボーリングは2ゲームまで、って家で育ってるでしょ。それなのに世の中には、新しい音楽を作るために、フランスまで行って、仕事もしないでワインを飲んでるヒトたちがいることに驚いたのよ。いまこのときも、おとうちゃんやママは、汚れたコンロを磨いてるんだなって思ったら泣いたわ。
あんだけ家を出たかったのに、パリのカフェで彼とワインを飲んでると罪悪感で涙が出てきたのよ。あぁ、お里が知れてるなって思った。どんなに粋がったって、おとうちゃんとママの子なんだって。
それでね、帰ろうと思って、最後にモンマルトルのところにある有名なラバン・アジルってシャンソニエに行ったのよ。
有名だけど寂れた小屋みたいなところで、そこにみんな集まって、ぐたぐだ歌うの。
有名な曲を歌うんじゃないのよ。鼻歌みたいな、替え歌みたいなものをね。なんとなくみんなで歌ったりするの。
それにとても刺激受けたのね。シャンソンてこれなんだって。フランスみたいな階層社会で、どうにもならない抑圧されたものを、ただただ歌にして、生きる。それが人間の生きる知恵なんだと思ったの。
歌を歌えば、明日生きられる。
これだと思ったわ。ヨナ抜き音階の演歌とは違う、もう少しからりとしたメロディをね、みんなで歌ったらいけると思ったの。
胸が高まって、店を出ると、モンマルトルの丘から、パリの夜景が見えたわ。その灯りの一つ一つが星空に見えた。瞬く灯りのひとつひとつに家族がいて、そこで好きな歌を家族や仲間と歌っている。
彼とはサヨナラして、日本に帰って、おとうちゃんに話したのよ。
「このまま喫茶店をやってても、先が知れてる。だから、夜はシャンソン喫茶にして、港湾で働くヒトや、工場で働くヒトの慰めになるものをやりたい」って。
いまのままではどちらにせよ店の家賃も払えないし、なにより、あたしが夜やれば、両親は12時前に寝られるんだもの。
すごく喜んでもらえると思った。それなのに、親子ってダメね。
ママは大反対したわ。勝手なことして店を乗っ取らないでって言ったの。パリなんか行ってだれかに余計なこと吹き込まれてきたんでしょって、塩を投げたわ。
だけどあたしも必死よ。
「わたしが家賃は全部払うからやらせて」って。
お客さんたちも間に入ってくれて、ヨシノちゃんは親切で言ってくれてるんだよって。無下にしちゃ可愛そうだよ。子供の親切を受け止めるのも親の努めだよって。常連さんでママを説得してくれたのね。
そして私にも、
「親の理不尽を、いつかありがたいと受け止める日が来るはずだから、ママを恨んじゃダメだよ」って。
ありがたいわね。おとうちゃんとママの店には、良いお客さんが付いてたの。それで始めたのよ。夜だけの営業だし、あのとき丘の上から見た星の一つにこの店もなれたらなって。
それで喫茶・エトワール。
わたしは、いちお、エトワール・ヨシノってことにして。だけど私が歌うんじゃないのよ。お客さんが好きにピアノを弾いたり、愚痴を歌ったり。パリのシャンソニエみたいに、そういう憂さ晴らしの店にしたかったのよ。
ところが、それじゃ、やっぱり駄目なのね。売上が立たなくなってしまうの。それで、結局、店は畳むことにしたのよ。
昭和55年のことだったわ。おとうちゃんとママはあっけなく死んじゃった、恨む暇もなくね。
(次回に続く)
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