ヴィルヘルム・レプケは、1899年10月10日、
ハノーヴァー近くのシュヴァルムシュテット村
(Schwarmstedt)で医者の子として生まれています。
生家はプロテスタント信仰の厚い古くからの名家で、
昔ながらの農村的環境の中で幼少年期を送りました。
レプケの経済ヒューマニズムの思想を一貫して流れている、
伝統的なヒューマニズム思想とキリスト教思想は、
プロテスタントの家庭に育ったことが影響しているでしょう。
レプケはマス化やプロレタリア化などの近代文明病を治療する方法として、
農民的・職人的なカルチャーの再生を主張したのも、
幼少年期の原体験を取り戻したいとの思いが見受けられます。
レプケは1917年に大学に進学し法律を学び始めましたが、
その年の秋に学徒出陣を余儀なくされ、歩兵として従軍しました。
負傷し退役した後、1918年から1922年にかけて、
ゲッテインゲン大学、テュービンゲン大学、マールブルク大学で法律を学んだのち経済学に転じています。
レプケは、講演やベンをもちいて果敢にナチスを攻撃しました。
「ナチスの本性は、共産主義と同じ全体主義だ」
と見抜き、警鐘を鳴らしました。
やがて目をつけられたレプケは、1933年に大学を追われ、その年の秋には国も追われます。
そしてトルコのイスタンブールに亡命しました。
レプケは1937年までイスタンブール大学の教授を務めましたが、
同じくドイツから亡命してきたアレクサンダー・リュストウと親交を結びます。
○農民的・職人的カルチャーの再生
○市場整合的干渉や市場警察としての国家の役割
レプケの考えの中核は、リュストウとの交流の中で醸成されました。
そしてレプケは1937年の秋、スイスのジュネーブに移住します。
レプケは、ジュネーブ大学の国際経済問題担当の教授として教育に従事するかたわら、
精力的に執筆活動を展開しました。
みずからが「3部作」と称している『現代の社会危機』、『人間の国』(『ヒューマニズムの経済学』)、および『国際秩序』はいずれも戦時中のジュネーブで書かれています。
三書を貫くのは、
○反独占
○反資本主義
○反集産主義
○反全体主義
でした。
加齢をものともしない猛烈な勢いで著書・論文・時論を量産し、
生涯でおよそ800点、晩年の8年だけでも250点にのぼる量を書き上げました。
人格の尊厳と自由と共同体的な絆をベースにした『人間の国』を描き、
それが実現するよう訴え続けました。
まさに凄まじい執念です。
ナチスの暴力と迫害を、身をもって体験した者でなければ書けない執念がそこには書かれています。
そして1966年2月12日、ジュネーブにて死を迎えます。
レプケは経済学者を自称していましたが、
それにとどまらない豊かな学識と深い洞祭力を身につけた教養人でした。