希望ある作品

希望ある作品

新しくボクが作品を作ろうかなという時期に、
たまたま若いヒトから、
「井川さん、次は『希望ある作品』 にしてほしい」と提言があった。

「希望ある作品」、ねぇ。
まず「希望」とはなんなのか。
それを考えることにした。

希望が持てない若者がいる、とニュースが報じてる。
いまの日本は心底貧しくて、これからも稼げる気がしないと若者が嘆いている。
この国は沈没するとわかってる、さっさと海外に逃げ出したい、と若者が息巻いている。
どうせオレは、このまま終わりっすよ、と死のうとしてるやつがいる。

希望とは「金を稼げる」ことなのか。
希望とは、自分だけが金の稼げる身にあることなのか。

それは、そうだろうと思う。
お金は大事です。東京にいると、お金が無くては何もできません。

けれど、けれどだな。

お金があっても希望がないヒトもいる。
お金があったので、不幸というヒトさえいたりする。

世の中は、あなたの、その、
小さな手では変えられない、

だけど、自分は変えられる。
自分を変えられたら、それは希望だね。

自分なんか変えられるわけないと言う。
色々やってみたけど、変えられなかったと言う。
変える必要なんかあるんですかね、
他人が他人を変えようだなんて傲慢だなー、
と誰かが言う。

いや、ヒトは変わる、
ヒトが時との関わりの中で、
少しずつ変わっていくさまを捉えられたら、それは希望に映るかもしれないと思った。
そういうドラマを作ろうと。

登場人物が変わっていくドラマ。
でも、はた、と思った。

登場人物が変化していく、それも作者の都合で、
そんなドラマなんて、掃いて捨てるほどあるではないか。
いや物語とはすべて、そういう体でできているではないか。

なにを今更、ボクはひらめいた気でいるのだ。
それから、ずっと希望→変化、と考えた。

それでふと思いついた。
演じる人間そのものが変わっていったらどうか。
作ってるスタッフそのものが変わっていったらどうなのか。

演じ手も、制作者も、みなが変化していく。
そういう作品。

連続ドラマを、作ろうと思った。
見境なく連続ドラマ、を作り始めたら、
変化せざるを得ないだろう。

演者もその辺にいたヒトたち、
作り手もその辺にいるヒトたち。
資金も用意しない。あるやつが払う。
どこに到達するか誰もわからない。

脚本もその都度書いて、これを一年間続けたら、
なんとか、予定の八話までやりきってみる。
なんでもいいから、エンドマークまで走ってみる。

そうすれば「希望ある作品」 になりやしないか。
カメラはボクラの、熱い汗を、冷や汗を写してしまうのではないか。

自分を変えるためには、視座を変える必要がある。
視座を変えるには、継続が必要だ。
どんなことでも継続すれば視座は変わる。
継続するためにはどうすればいいか。
愛だろうと思う。

改めて。
愛とは許すことだと、ボクは思う。
人間は、愛なくして継続はできない、とボクは思う。
人間が生きれば迷惑がかかる、
それを許す、それには愛が必要だ。

親子の愛ではなく、
恋人の愛ではなく、
なんでもないヒトの、なんでもない愛が、
ヒトを変えていく。
なにか踏み出そうとさせる。
踏み出せば自分の無知を知るようになる。

ボクが連続ドラマ「ノッテビアンカ」を作ろうと思い立った経緯はこういうことです。
いま最終回の脚本を書き終えて、6話までの配信を終えたところです。

どうかな。
どうかね。
どうなのよ。

ノッテビアンカは「希望ある作品」 になってるのかね。

ボクにはわからない。
わからないけど、幾多の危機を演者も作り手も乗り越えてきて、
いまようやく、エンドマークが見えてきたところです。

最後、白いロープが切れたときは、
ボクはボクを手放しで褒めてあげたい。

ボクはボクの一番のファンです笑。

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