第三者の愛
今、「ノッテビアンカ」というドラマを作っています。 ドラマを作ろうと思ったとき、どんな話にしたらいいか、周りにいるスタッフに訊きました。 すると、希望がある話がいいと答えた若い子がいました。 そもそも、希望とは何か?を考えると、それは第三者の愛じゃないかと僕は思う。 でも、若い子たちは、親ですら自分のことを愛してくれないんだから、第三者が自分を愛するわけがないという。 けれど、子どもは親だけが育てるものでもないし、社会が育てるというのは絶対にある。 社会というのは、例えば、健康な人がそうじゃない人の分をカバーするというところがある。 だから、社会に自分を委ねられるとすれば、第三者の愛情が機能しているということだよね。 でも、今の日本では、それがとても希薄だろうとも思っている。 若い子たちは、自分は能力がないから、市場価値が低いから愛されないし、市場価値がないものは世の中から見捨てられるという不安をとても強く持っているとボクは感じている。 そんな若い子たちに、「ノッテビアンカ」のドラマの中でリアリティを持って第三者の愛があるということを伝えられるかどうかだよね。 ヒトというのは、なんだかわからないようなものの力で生かされている。それを、連続ドラマとして、どうリアリティを持って表現出来るかということに苦心しているわけです。 「ノッテビアンカ」の描く希望とは、世の中には第三者の愛が存在することを表現することだと確信しています。 その確信を持って、ボクはこの作品を作っているので、それが伝わるといいなと思っています。