過剰こそが救う(MAMEHICOで大切にしている10のこと⑥)
どうもお困りになられている方も多いと思いますが、
この夏に父が亡くなり、母が一人札幌の一軒家に住むという状況になり、ボクも必要に迫られて東京と札幌を行き来していると、年金、介護、いろんな手続き一つとっても、システムというのは実に不親切、複雑になっているなと感じますね。
自分は子どもたちには世話にならない、あなたたちは好きなように生きたらいいと言ってくれていたけど、年をとれば、自分ひとりでやってくことは実質出来ないよね。
「ノッテビアンカ」でも孤独死をテーマの一つにしたけど、この孤独死に隠れている事っていっぱいあると思うんだよね。
周りの支えあう人間関係が非常に希薄であると思わざるをえない。うちだけの問題じゃなく街中、国そのものが疲弊している。
それぞれが孤立していて、都市化社会の中でポツンとしているヒトにちょっと声をかける、おせっかいをやくというのが非常に少ない。
ボクらMAMEHICOではおせっかい、過剰こそが救うというのをスローガンに挙げているけど、これ、難しいね。おせっかいして嫌われたくないという保身の気持ちがあるし、それが相手にとって心地よいという関係性が出来てなければ裏手にとられちゃうということはあるよね。
いつも思い出すのは、横浜のみなとみらいのところの石板に掘られた、ドイツのシラーの詩。
自然というのは過剰である。自分の為だけではなく、たくさんの実を過剰につけることで人間や周りの動物の命を紡ぐ。
我々は自然という過剰な恵みに支えられているのだ、
という。
ボクはそれを、だからこそ人間も過剰にふるまわなければいけないんだと拡大解釈してる。
10か条通して言えることは、関係性が出来てなければどれも成立しないということ。
関係作りというのが、今の社会では非常に希薄だと思う。地域のコミュニティが崩れたというよりは社会が便利になって、コンビニエンスになって、めんどくさいことをしなくてもよくなったということ。
だからこそ、ある程度不便な生活に戻らなくちゃいけない。
ボクらのような若いヒト達が便利なものから、あえて不便なものを楽しくやることで人間関係が育まれるだろうと。そうしていく中で互いに過剰になってもいいかなと振舞えて、そうするとこうしてもらったからこうしようと廻り出す。
非常に時間もかかることだけど、なにもしないよりはボクらMAMEHICOがやっているめんどくさいことに参加しませんかという思いでこの過剰こそが救うを掲げてみました。