年がまたいで、ますます寒さが増すこのごろ。
けれど、どこかですでに、春が隠れていることに気づく。
日が少しずつ長くなっていること。
温かい風に乗って、土の香りが届いたこと。
蕾が膨らんでいる、気持ちもまた同じく。
去年の今頃はノッテビアンカの撮影に追われていた。
思い出すのは、梅園での撮影、風に舞う梅の花びら。
紅も白も。
梅の花びらが舞うなんて初めて知った。
桜より色が濃い分、艶やかだった。
一年、季節を追っかけた「ノッテビアンカ」は、ボクの歳時記になっている。
もともと。
通年マメクルを、花の咲く場所で撮ったことが、
「ノッテビアンカ」につながっている。
今振り返るとそう思う。
そして「ノッテビアンカ」を撮ったことが、いまのMAMEHICOにつながっている。
それは疑う余地もない。
宇田川町店でゲーテ先生をやったことが、エトワール★ヨシノになり、
ヨシのが銀座を呼んで、いまがある。
そういう小さな流れがいくつもあって、銀座や神戸、今の大きな流れがある。
そして。
今取り組んでいるこのMAMEHICOも、なにかへの小さな流れなのかも知れない。
先のことはわからないとみんないう。
あした死ぬかも知れないんだし。
どんなに努力したってダメなときはダメなんだし。
先の見えない不安のなか刹那的に生きる自分を、そうやって慰めている。
ボクはそう思わない。
流れというものはある、流れとは水。
気持ちの流れも水のごとし。
お金の流れも水のごとし。
運の流れも水のごとし。
血液の流れも水のごとし。
自分の人生もまた、水のごとし
ボクは水を信じている。
水は、ぱっと消えてしまうなんてことはない。
川が理不尽に終わってしまうなんてこはない。
だから、ボクの流れは突然ぱっと止まってしまうなんてことはないのだ。
もし小さい頃、やりたい気持ちがあって、
けれど親に止められる。
堰き止めた気持ちは必ず強い流れとなって、
堰き止められなくなったとき強く下流へと流れ出す。
人間は水をせき止めることは出来ない。
せき止めた水は必ずあとから、
暴力的に理不尽に、容赦なく当たり前を流してしまう。
まさかこんなことに。
水の力を侮ってはいけない。
ここ十数年、歪んだ生活を送ってはいないか。
なにかを堰き止めてやしないか。
なにもかも、水だとすれば、それは怖ろしい。
季節は変わる。
ボクは流れに沿って生きる、水を信じている。