ドイツの鉱物学者のフリードリッヒ・モースというヒトが名付けた、モース硬度っていう硬さの単位があってね。主に鉱物、石に対する硬さの尺度らしいんだよね。
ダイヤモンドは一番硬いと言われていて、モース硬度でいうと10。その次はルビーとサファイヤ、一番柔らかいのがチョーク。
モース硬度の高いものが低いものを削る。ダイヤモンドはダイヤモンドで削るんだけど、それだけ非常に硬くて貴重なんだよね。
刃物は研ぐと言うけど、石を使って刃物を削っていく。削る作業は痛みを伴うよね。砥石もすり減るけど刃物もすり減ってくる。
宝石も原石から削って、小っちゃくなって輝きのある宝石になるわけだけど、材木から仏像を彫ることも含めて、削るという作業は暴力的、男性的な作業だなとボクは思います。
人間も削り出す作業は必要じゃないかと思うんだよね。
削るという作業があって初めて、包丁は包丁であるわけで、短くなったりすることを可哀そうだと言うヒトはいないよね。
ありのままでいいと言うなら、鉄の包丁もどんどん錆びていく。錆びて切れなくなった包丁をありのままでいいと言えるのかということだよね。
いろんなものが風雨にさらされて、削ったり削られたりするわけで、地球も日々荒波にもまれ、風雪にさらされて削られていく。氷河なんて何万年もかけて、氷が大地を削っていくことがあるわけで、なにか削られていくことはすごく自然で美しいことだと思うんだよね。でもそれは自分より硬いものによってしか削れないということ。
自分より硬いものが、自分の中でちょっと痛い、ひりっとさせるものなんじゃないかな。
なので、自分より硬いものに触れることで自分を削り、それが自分の切れ味となっていくことは非常に必要だとボクは思うんだよね。
そのままでいいのよと自分より柔らかいものとだけ接して、そのまま錆びて切れない包丁となって放置され、誰からも見向きもされないという方が非常に残酷。
そんなことを考えた次第であります。