決定打に欠ける

いろんな話をいろんなヒトから聞く機会があります。

例えば、旦那と別れたいけど別れられない。旦那は給料をちゃんと入れるし、浮気するでもなし何するわけでもない。でももうお互いに愛がない。こういう場合、さあ、別れるかって難しいよね。

どんなものでも決定打に欠けるというのはひとつの不幸じゃないかって気がするんだよね。

こういう時に、浮気や、借金何か決定打があれば話はがぜん進むわけ。

ヒトが前に進む時には決定打が必要で、人間には良心があるし、いろんなものを鑑みてもたいして決定打もない相手を切り捨てるのはどうしても出来ない。

自然界では、土砂降りになったり、暴風雨になったり、水不足、そういう危機が必ずあって、決定打が下されて前に進むんだと思うんだよね。

でも、互いにエアコンの中にいる人間が寒くも暑くもなく、貧しいでも、豊かでもないというコンビニエンスで平穏なものを求めた結果、何か自然の摂理に反するような決定打に欠けるということが、案外、不幸をもたらしてることってあるんじゃないかなぁってね。

なので、若い子たちも今の会社が嫌ってわけじゃないんですよねー。というように決定打に欠けるわけだけど、これは受け身ではどうにもならないと思うよ。

自分の人生は自分で決定していくっていうマインドでいた方が、受け身より2倍も3倍も楽しいんじゃないかと思うのでね。

停滞しているヒトの話を聴くと、だいたいは決定打に欠けてるよね。今の状態を嫌だとは思っているものの、なにか決定打に欠けるのでなんとなくずるずるといる。

例えば、ちょっと辛辣かもしれないけど、ブロイラーの鶏の様に、餌もある、でもなんか生きてる感じがしない。天変地異でも起こってくれやしないか、旦那が浮気でもしてくれないか、病気でもなりはしないか、そんな風にどこか潜在的に誰かが決定打を下してくれないかとなんとなく待っているわけ。

でもでもだけどが口癖でなんとなく元気がなくなっていく人は決定打に欠けているので、自分で決定打を打つということをお勧めしたいと思います。

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