「学ぶと習う」について

桐生の紫香邸に行くときは車で行きます。
東京からだいたい2時間程度かかります、案外遠いです。
せっかく車で行くので、行ったら周辺を散策することにしてる。
そのなかで、隣町にある「足利学校」をみつけたので立ち寄ってみました。

足利学校は鎌倉から室町にかけて盛んだった、日本の最高学府だそうです。
たしかに、足利の街は『学問』の匂いがする、キリッとしてます。

そこでは『論語』ももちろん学んでいたようで、その一部を抜粋した『論語抄』が売店にあったので求めました。
数ある論語の中から、足利学校が大事だと思うものを抜粋したのでしょう。
うなるものばかり、厳選されています。

みなさまにも、そのなかの一文をご紹介しましょう。

【原文】
子曰く、学びて時に之を習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。

朋あり遠方より来る、亦た楽しからずや。

人知らずしていきどおらず、亦た君子ならずや。

【通釈】
孔子は言った。

学問をして、その学んだところを復習できる機会を逃がさずに、何回も何回も繰り返して復習すると、学んだところのものは自分の真の知識として完全に消化され、体得される。

このようにして、知識が豊かになれば、道を同じくする友達が、遠いところからまでもやってきて、学問について話し合うようになる。
これはまた、なんとたのしいことではないか。

しかし、いくら勉強しても、そんな自分を認めてくれない、それが世間である。
そうだったとしても、うらまない。
それでこそ、学徳ともに優れた君子なのだから。

——

さすが孔子ですね、言うことが厳しい。
ボクは老子びいきですが、ここでおっしゃられてること、身に染みてわかります。

ボクもそんな足利学校に習って「いかひこ塾」っていうのを始めました。
ウソです。
この塾はずいぶんと前から続けていてですね、コロナのときも、密かに塾生で集まってはご飯を食べたり、遠足をしたり、連続ドラマを撮ったりしたものです。

ボクを中心として、ワイワイと仲間が集まり、楽しく失敗を経験する場となっています。笑
いかひこ塾での経験がもとになって、ボクはメンバーシップ制のMAMEHICOをやる覚悟が決まったのです。
銀座と神戸のMMAEHICOを始めるきっかけで、いったん塾はお休みにしていましたが、今年になってまた復活させました。

さて。
先の論語にある「学びて時に之を習う」の一節。
ここには「学ぶ」と「習う」の違いが指摘されている。

「学ぶ」という意味は「経験することによって知ること」。
一方、「習う」という意味は「経験を積んで、慣れること」。

「学ぶ」は「知る」ことで、「習う」ことは「慣れる」ことって意味になる。

塾でも学校でも、知識を教えてもらって、「はいはい、わかりました」となっても、そこから、「できるようになりました」となるまでには、長い長い、それはそれは辛く厳しい、繰り返しの道のりが待っているということ。

だからこそ、志の近い友達を作れよと。
その友と会って話し合えば、それが悦びになるぞと。

ボクに相談しに来るヒトのなかにも、自分がうまく行かないのは、
「やりかたがわからない、有益な情報を知らないからだ」
と考えているヒトが多い。
こういうヒトはいつも「うまくいくやり方」を探している。
だけどボクはこう思います。

「あなたに足りてないのは、やり方を知ることじゃなくて、失敗を経験する場だろう。
失敗を認める心、失敗を許す仲間、失敗を繰り返せる居場所」

ボク自身、失敗に次ぐ失敗で、んー、ていうか失敗しかしていない気さえする。
できるようになったら、さらに上を目指したいし、新しいことにも挑戦してみたい。
必然的に、失敗の経験が膨大に積み重なっていく。

カフェがやるようなことじゃないかもしれないけど、「学ぶ場」はあれど「習い場」が少ないのだから仕方がない。

興味がある方は、我が門を叩いてみてください。

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