マメヒコを2005年に始めてから今日に至るまで、長い月日が過ぎました。
その中で苦労はもちろんたくさんありました。
ちゃんとしててもお金がまったく足りないとか、ヒトに裏切られたり失望したり。
たくさんの別れも経験しました。
そういった細かなことはいっぱいあるんですけども、総じて言えば、ボクの考えていることがまったく通じない、そのことに苦労したように感じています。
理屈なら、ある程度説明すれば、誰にだって通じるわけですけど、ボクが伝えたいことは理屈ではないんですね。
なんとなく良いこととか、なんとなく嫌なことだとか。
そういったものを、見知らぬお客さんにどうやって伝えればいいのか。
通じないものをどうやって伝えるか、それに腐心してきた20年ばかりだったように思います。
たとえば。
お客さんと店の関係として、どうして店員がお客に徹底して遜らなくちゃいけないのか。
有り難くないヒトにまで、「ありがとうございました」なんて言わなくちゃいけないのか。
店員が自尊心を持って店に立てたり、店員だろうがお客だろうが、ひとつの空間をともにしているわけだから、倶に創る、そういうことができないのだろうか。
そんなことをずっと考えてきたわけですが、それって通じないんですね。
たくさんの若者と付き合ってきましたし、いまも付き合っています。
彼、彼女たちとの関係にもいつも悩むんです。
価値を生み出すこと、生産性を高めることが企業としての宿命であり、仕事とは価値を生むことだという世の風潮がある。
それに落ちこぼれた若者が、新しい勤務先としてカフェに流れ着いてくることが多い。
一人ずつは向き合えば、悪い子達ではない。
どちらかというと素朴で良い子です。
それで雇ってみたりしますけど、価値を生むような仕事の仕方をしないんですね。
しないというか、しようと思ってもできないんです。
果たしてこういう若者は存在価値がないといえるのか。
こちらとしてもダメだダメだと叱責しますが、それで良くなるわけではありません。
その子の胸の内をのぞけば、生い立ちが浮き彫りになったりする。
現代の教育の質や孤立社会、日本の没落が浮かび上がってきたりもする。
人間は道具ではないんだ。
生き物なんだ。
だから誰かが目をかけてあげたり、愛というと薄っぺらい言い方だけれど、根気強く付き合い続けてあげることが必要なんだ、そんなことに気づくわけです。
ただ。
狭い店という空間で、仕事ができないやつが、甘ったれてみたり、不貞腐れてみたり、開き直ってみたりすれば、それでも同僚として愛せるかといったらそれは無理です。
生産性をあげなくちゃいけない経営者であるボクの視点、自分ごときが他人を裁いていいものかという一人の個人としての視点が、いつもぶつかって苦しくなる、それもまた現実です。
苦しくなるのは、ボクが問題には必ず解決策があると思っているからで、そんなものは無いんじゃないか、問題は解決されないままでいんじゃないか、そんな風にボク自身が変わってきているようにも思う。
同時に時代も、今までわかりにくいと思われていたもの、見捨てられていたものが、ほんとはとっても大事だってことに気がついてきているようにも思います。
新しい時代が来ているな、そんな気がしています。