ゴールデンウィークは桐生だったので、行き帰りの車内では、昭和の流行歌手をyoutubeで聞いていました。
ジャズ、ムード歌謡、カンツォーネ、シャンソン、民謡、音頭…。
あらゆる分野の音楽を、日本語ポップスに変えてしまう凄み。
戦後の敗戦を振り返らず、とにかく前を向いて生きる。
そう決めた、あの時代の人々の力強さを、歌からも感じます。
数ある流行歌手の中には、とてつもなく売れていたのに、閃光のごとく、ぱっと光って、散った、若い流行歌手もいました。
芸能界から身を引き、二度と表舞台には立たない。
テレビカメラに向かうこともない。
もちろん、それは自分で決めたことであるし、これからは静かな生き方をするんだ、後悔はない。
そう決意して引退したのでしょうが、多くの葛藤があったはずで、なんなら死ぬまであれでほんとによかったのか、自問自答の中、生きていったであろうことは想像に難くありません。
流行歌手とは、自分の人生を消費されてしまう存在なのでしょうか?
華やかなリズムとその息遣いから、無常の世界が垣間見えて、なんとも複雑な気持ちになりました。
とある歌手が引退公演のときの歌詞に、こういうのがありました。
『歌うことと 踊ることの稽古のくりかえし
傾けた情熱は 何のためだったのだろう
何かに糸ひかれ 目かくしをされたまま
私たちは唄って来た 最初から最後まで
歌うことが私たちの生きているあかしだと
素直に信じて 声かぎり唄ってきた』
「目かくしをされたまま」という歌詞を、引退を惜しむファンの前で歌う若い流行歌手。
なんとも皮肉で残酷な社会です。
世間からの期待やプレッシャーを跳ね返し、成果を出し続けるためには、華やかな面の裏で、
何倍もの努力や犠牲が必要です。
ひとたび期待されたものは、その品質が少しでも落ちようものなら、「あいつは終わった」と平気で罵る、それが人間であり、世間というものです。
祭り上げられ、成果を出し続けなければ叩き落とす社会。
不断の努力は自分自身を消耗させていく。
「誰かに消費される生き方」とはそういうものかもしれません。
2024年。
時代の見かけは変わりましたが、社会の中身は、ちっとも変わって無いというのがボクの印象です。
コンプライアンスだ何だと言って、どうなるものじゃありません。
どんなことでも努力は必要でしょうが、それは休み休みやらなければいけない。
休息を自分で管理できればいんですけど、自分でそれができりゃあ苦労しない、とボクは思っています。
顔色が悪ければどうしたんだと聞いてくれ、だったら休めと言ってくれる周囲の人間が必要です。
お前はまだまだやれる、今は走れ、そう鼓舞してくれる周囲の人間も必要です。
SNSの進化で、より消費のスピードって加速してませんかね。
戦後の高度経済よりも今のほうが、圧倒的に周囲の人間が必要とされる時代なんだとボクは思いますが、みなさんはどうお感じになられますか?