甘ったれは価値なしが社会

お店が忙しくなると、どうしても猫の手も借りたいということで、猫を連れてきて働いてもらうことがあります。

その時、やっぱり猫じゃ困るんだよね、ということが現場では多々起きる。猫とは何かというと、甘ったれだよね。自分がいかに出来ないかを滔々と説明したり、やる気はあるけど出来ないのを泣きながら訴えてみたりね。

決められたことを決められた通りにやっていくという社会の仕組みの中では、どうしても女のヒトは難しいと思う。世間のリズムと自分のリズムがあってる時はいいけど、自然のリズムや自分のリズムが仕事のリズムになるような職場や環境、周囲の理解がないと、不安定の時はどうしようもないよね。

そういう時、ボクらがその子を採用するか教育するかという問題があって、そういうヒトに教育すると、口先三寸でまた繰り返す。そのうち周りも、うんざりして、もう教えるのはやめようと、こいつには価値がないと認定していくんだよね。

そうなると、本人としては居場所がない、自分を恨むしかないわけ。

例えば、水がなくても生きていけるサボテンと、水辺に咲く花があったとして、サボテンが水辺の花にいつも甘ったれてるんじゃない、水がないところでも花を咲かせられなきゃ社会では通用しないよ、と言っても、果たして出来るのか?とは思うよね。

だから、のっけからサボテンを採用した方がいいという考え方もあるけど、サボテンじゃなくても出来るものを考えたり、花咲ける環境を用意するのが現実的なのかもしれない。

頑張ってやっていようがやっていまいが、できてないものはできてないと見るのが社会なわけで、そういうヒトが非常に多いのを見ると、日本の教育が間違っていたんだとも思うしね。

小さい時、お母さんに甘えたかったけど、甘えさせて貰えなかった。ここにきて急に、自分ってこんなに甘えたかったんだと気づいちゃったという若い子がいてね。長い目で視れば、その時に無理していただけで、そのヒトの本質は変わってない。その時我慢していた部分が後になって津波のように押し寄せることがある。

これは個人の問題というより、社会の問題が大きい気がしますね。

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