「明るくいる」について

今回は、ボクの子育て論を。

ボクは人間というものを、自立した個人として、一人ずつ付き合いたいと考えています。
それはたとえ子供であっても、です。

いまの日本は子供が圧倒的に少ない。
だから、我が子が大人になったとき、異文化のヒト、育ちや価値観が異なるヒトとも、溶け合ってコミュニティを結べるようにしてあげることが、子供に残してやれる財産になるんじゃないか。
だから子供には、社会の「現実を教えること」が、親の、とりわけ父親の役割なんじゃないかと考えたんです。

なので、いつも明るくいることを義務化したんです。
「うちの子はおとなしい性格だから」と、仏頂面の我が子を庇う親がいますが、ボクはそういうことはしなかった。
子供が明るくいることは、「したい」とか「したくない」とかの問題ではなく、義務なんだよと教える。

どうしてとか、笑いたくないときもあるよとか、そういうことではない。
もちろん人間だから、明るくいられないときもあるでしょう。
だけど、明るくいる、は義務なんだと教える。

「人それぞれなんだから、仏頂面だって個性じゃない」
ボクひとりで子育てするわけじゃないから、そういう考えを教えるヒトも出てくるでしょう。
それはそれでいいのです、選択肢が増えるのだから。

ボクが思うに。
日本的な共同体が現代においても、しっかり存続されているなら、仏頂面しててもいいでしょう。
だけど現実を見ると、他者と共同でなにかをやり遂げなければいけないのが、いまの社会です。
フリーランスと大組織のサラリーマンで、仏頂面等が許されるのはどっちか考えればわかります。

明るくいることを求められるのは、現代社会で自由な身でいたいなら義務です。
子供はそういう現実を知らないんだから、ありのままの現実を伝えるのは、親の役割だろうって考えた。

子供には個性がある。
だから義務なんていわず、放任させればいい、なんていうのは、子供に向き合って時間を奪われたくない
大人の詭弁なんじゃないかと思う。

うちの子とは、「ずっと笑顔でいられるためには、どういう心持ちでいればいいだろう」と、うんと小さいころ、時間を取って話し合い、ずいぶんと考えさせました。
自然の中で遊んであげたり、ご飯を作って食べさせたり、そういう時間の中で話し合うのです。

ボク自身、いま大人になってみて、メンバーシップ制のカフェを始めたからには、なるべく明るくいようと努めています。
性に合わないヒトの前でも、どうやって明るくいるか、それは課題です。

そうやっていくなかで、「いろんな人間がいる」と知ることもできるし、また、「案外どの人間も似たりよったりだ」ということも知れる。

子育ては自分育てなんて言いますけど、本当そうだなと思います。

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