「批評」について

この国では、みんなが批評家になって久しいとボクは思う。
「アイツのあぁいうとこがおかしい。コイツのこういうとこがおかしい」
鬱憤晴らしは人間にとって必要でしょうから、とやかく云う気はないです。

だけど。
そういう批評的な態度、偉そうな振る舞いに慣らされた子供たちは、どんな風に育つのかなってことを、子育てのとき考えました。

たとえば。
他人の批評に慣らされた子供は、自分が何かするときに、とても萎縮してしまうんじゃないか。
小説が好きで、いつか小説が書きたいと思っていても、たくさんの作品の冷たい批評ばかり繰り返し聞いていたら、自分で小説を書くことはできなくなってしまう気がします。
ひらめいたアイデアも、脳内の批評の声が聞こえてきて、「凡作に決まっている」と原稿を破り捨ててしまうんじゃないか。

つい先だって。
都知事選がありました。
東京に店を持つボクには、当然、選挙戦が目につくわけです。
店の前でも何度か街頭演説がありました。
そこで目にするのは、候補者に対する暴力的な批評の嵐。
どうしてあそこまで批判しなくちゃいけないんでしょう。

あれを見ても「この街のために立候補したい」
と思うヒトっているんだろうか。
いたとしたら、それはさぞかし鋼のように強い人間でしょうか。
選挙は戦だ、そう云われれば暴力的なことがあっても仕方ないのかもしれないけど、醜いイジメに身近なヒトが巻き込まれてまで選挙に関わりたくないと、ボクのような臆病者は怖気づきます。
それはボクが弱虫なだけでしょうか。

かわって。
ボクは「批評的で冷たい見方では見えないものがある」と思っています。
「すごいなぁ」「とってもいいなぁ」「すばらしいねぇ」。
感嘆や惚れ込みによってしか見えてこない良さってものが存在すると。

「このカフェってすごいなってワタシ思ってて。かれこれ、二十年近くも通ってるんです。
いつ来ても、お掃除がゆき届いているし、店員さんの感じも良くって。
来る時間、座る席によって、見える景色が違うのも良い!
長いテーブルに腰掛けると、目の前のお客さんが美味しそうに珈琲を飲んでらしたり、静かに本を読んでいたり、それを眺めるのもまた良い!」

そんな風にMAMEHICOを感嘆してくれるお客さんがいる。
同じようにMAMEHICOに惚れ込んで働く店員がいる。
ああ、ボクが気にしてることを見てくれてるんだな、ボクが気づかなかったMAMEHICOの良さを教えてもらったな。

ボクがカフェ営業を楽しく続けてこられたのは、ひとえに、温かさがあってこそだよなと思うのです。

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