誘惑にご用心

カフエ マメヒコを始めたのは2005年の7月1日のこと。
その2年後には、渋谷の宇田川町にマメヒコ渋谷店を作った。
それからほどなくして影山知明さんに頼まれて、クルミドコーヒーを西国分寺に。
そのあとすぐに、とんかつ屋とパン工房と純喫茶をひとつにした「マメヒコパート」を宇田川町に作った。
途中、とんかつ屋を任せていた江尻のおじさんが失踪して、マメヒコ飯店に改修。
その矢先、立ち退きにあった(そこは今、アベマタワーになっています)。

そんななかでも、とんかつ屋の常連のお客さんから「あなたは映画を撮るべきよ、それもマメヒコピクチャーズを!」とそそのかされ、ひょいひょいと「マメヒコピクチャーズ」シリーズで三作品の映画を撮った(田口トモロヲさんが主演です)。

ほかにも。
「ハタケマメヒコ」を北海道の大樹町で3年。そのあと千歳、月形で合わせて7年やった。
たくさんのお客さんが飛行機代も宿泊代も自腹で助けに来てくれた。
オペラ歌手の増原英也さんに誘われて、「ゲーテ先生の音楽会」という音楽劇のコントを作った。
ボクは作、演出、出演を担当し、かなりの数の作品を作った。そして、やってて面白かった。
渋谷はパルコの前に公園通り店を出したのもこの頃。
「ゲーテ先生」が縁で銀座のSOLAを知り、「ゲーテ先生」がきっかけでエトワール★ヨシノというシャンソン歌手との二足のわらじを履き続け、「ゲーテ先生」を見た編集者の佐渡島庸平さんと知り合った。
「あなたは小説を書くべきだ、それもMAMEHICOのお客さんとのコミュニティのなかで!」と佐渡島さんにそそのかされ、小説も三冊ほど書いてみた。
そんなさなか、渋谷の再開発とコロナで、店の売上は激減、店は大きく傾き、スタッフも離れていった。

コロナのときは、思いがけず時間ができたので、お客さんたちと連続ドラマ「ノッテビアンカ」を撮った。
スタッフも出演もすべてMAMEHICOのお客さん。全10話、土日祝日にロケをして(みんな働いているから)、監督と作と演出と編集をボクが担った。
制作になんと一年もかかった(ボクのyoutubeチャンネルで見られます)。

コロナで家賃について大家さんと派手に揉め、渋谷の店は閉めた。
カフエ マメヒコは三茶の一店舗しかなくなり、もはやこれまで、と思ったところに縁が舞い込む。
メンバーシップ制のイベントカフェ「MAMEHICO」として、神戸と銀座、群馬の桐生に立て続けにオープンさせ(それぞれの経緯は割愛)、埼玉の富士見では「空水茶屋」を島田智行さんに頼まれて作った。
そしていま、佐渡島庸平さんに頼まれて、福岡の糸島に新しく「MAMEHICO」を作っている。

できたばかりのお店は認知も乏しく、売上もままならない毎日。
ほんとにカフエ マメヒコを始めてから、ボクはお金が足りない問題に、どれだけ心を奪われてきただろう。
「なんでこんなに真面目にやってるのに」と苛つく夜も多い。
お店を続けている以上、これが続くのかと思うと、うんざりもする。

ただ。
お店をやってきたなかで偶然が偶然を呼び、縁が縁を呼び、思いがけないことができるときは、とても面白い。
それがあるから、ボクはMAMEHICOを続けていられる。

お金の悩みはあれど、それ以外はとくに悩みはない。
巷にはたくさんのカフェができては消えていった。
その多くは時代のニーズに合わせたものが多かった。
みんなが望んでいること、喜ばれること、評価されることを気にして始めたものは、評価されなければ続ける理由がなくなる。
時代のニーズに合わせてカフェを作れば、お客は来るのだ、なんてことは、間違いなくない。

仮にニーズがあるとしたら、大企業はハゲタカのようにそこを取りに来るわけで、より便利なカフェ、より低価格のカフェが次々と出てきたら、ボクらのような小さなところは勝ち目もない。

最後にボクが怖れていることを一つ。

ボクはなるべく、自分が嫌だと思うことをやらないようにしている。
それが、どんなに必要とされていることでも。
というのも、たとえば社会が良いと評価することを、自分はほんとはイヤなのに、ついついやってしまうと、いつしか自分の好き嫌いがわからなくなってしまう、これがボクには一番怖いのだ。

「最初はイヤでもね、なーに、じきに慣れますよ。慣れてきたら全然平気っすよ」。
そういう誘惑には、絶対に近づかないようにしている。

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