「模合」について

人間て、弱いものよのぅ、と思います。

たとえば。
ボクのところに若いヒトから、
「一緒に働きたいです」と申し出てくることがある。
MAMEHICOで働きたい、井川さんの下で働きたい、動機は何であれ、今いる場所を脱出したくて、自分の居場所がほしんでしょう。

「いいよ、どっか、そのへんでフラフラしてたら」
ボクはそう言うようにしています。

門を叩いてくるヒトが、すぐにMAMEHICOやボクの即戦力になってくれたらいいですが、そんなことは100%ありえません。

だからまぁ、たがいに付かず離れずの距離を保ちつつ、「こいつの良いところはどこだろうか」、観察してですね、数年近く、放っておきます。

で、どうなるかっていうと。
大抵の場合、1年以内に消えてしまう。
ほんと不思議ですが、そうなります。
個別には様々な事情、ストーリーはありますよ。

けど、総じて見ると結論は、ほぼ同じです。
それで「御縁がなかったのね」で終わります。

これって、人間の持ってる弱さだと思うんです。
噛み砕いて言えば、「居る」難しさなんだろうと思うんです。
みんな「やる」については意欲的です。

「なにかやることあれば言ってください」
「あっそれやりますね、やらせてください」
「役に立てるようになりたいです」

けどね。
仲間になるっていうのは、まず「居る」ことからなのよね。
BeとDoの違い、と置き換えてもいい。
「居場所」がほしいって思うなら「居る」ができないとね。
まぁ、それが難しいわけですな。

沖縄には昔から模合(もあい)という、相互金銭扶助の風習がある。
たとえば毎月、メンバーで集まる、気の合う仲間でいい。

そんで、その10人のメンバーが集まって、毎月1人1万円を出し合います。
そして、そのうちの1人が10万円を受け取るという仕組み。
次の月も、また1人1万円を出し合って、別な1人が10万円を受け取る。
そうやって受け取る人が一巡するまで、毎月行うシステムです。
いろんなやり方あるらしいですが、仲間内でお金を融通し合う仕組みです。

それも家族や親戚といった血縁ではなく、
自由なメンバーで構成するっていう。
よくできた仕組みだと思いますね。

毎月、模合の集金を口実に、互いに近況を話し合うわけでしょ。
酒のんで親睦を深めて、お金を融通しあう。
これ原則参加が必須で、そして始めたら、途中でブッチして消えちゃうってしにくいですよね。

世の中って、人間関係でほぼ決まるものです。
ピンチのときほど、日頃の人間関係がものを言うんです。

21世紀になって、談合がだめ、接待だめといったって、人間関係で決まるものでしょ。

そのためには、どこに「居る」かが大切だけど、多くの人間は弱いから、ほっといても「居場所」って作りにくいものです。
特に昨今のコスパだ、タイパだという考えを持ってたら、それって、ますます難しいと思うんですよね。

地方に行くと、相互関係、コミュニティをつくるシステムっていうのが残ってたりする。
桐生のお祭りをみても、相互関係をつくるシステムとして、お祭りが役割を果たしてるなって思う。

一方、都会のヒトは、みんなにも厳しい社会になってるのに、コミュニティを活性化させることに、あまり注力してない。
すべて、「御縁がなかったのね」で済ましてる。
模合のような地方に残ってる仕組みを、もっとボクたちカフェも学ばなくちゃいけない。
やれデリバリー、やれタッチパネルオーダーとかさ、飲食店が進んでる方向って、それ違うんじゃないの?って気がしてる。

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