「信条」について

ボクは、「明日のことは明日の自分が決めたい」。
そう思って生活しています。
だから、前もって予定を立てることは好きではないし、しません。
とにかく自由を奪われること、束縛されることが大嫌いだし、日常生活はもちろん、仕事についてもルーティングなことは避ける。
これがボクの信条なのです。

小さい頃から周りと比べられて、「おまえは変わってるな」とボクの信条がやすやすと、受け入れられることはありませんでしたよ。
でも自分を変える努力はしてこなかった。
だって、ボクはそういう自分がとても良いと思っていたから。

ボクの周囲の友人や親兄弟は、本当に真面目で努力家ばかりだったし、ただ一方、学校の規則、会社の命令、世間の目に、いつもビクビクしていて、とても気の毒な気がしてました。

コロナ全盛だったころ、「うちの家族や友人がワクチンを打とうとしている。それをなんとか止めたいのだけれど。どうすればよいか?」と、怒ったような疲れたような顔で、ボクに相談しに来たヒトがいました。

そんなことボクに相談されても困るのだけれど、無視するのも可哀想なので、「ほっといたら」とだけ言いました。
そしたら「そんなぁ、冷たい」と泣き出してしまった。

んー。
気持ちはわかるけどねぇ、やっぱり、他人のことはどうすることもできないと思う。
言って変わるわけじゃないし。
大テレビや大新聞が、思いやりだの、命を守ろうだのと言っていたわけで、職場を上げて接種しましょうって奨励していたわけで。
多くの日本人がそっちに、なびいてしまうのは当たり前。

「私はこうする」より「相手はどう思うか」と気を使うのが、
多くの日本人の信条なのかもしれませんから、相手の信条を尊重してあげたほうがいい。

フランス人らしく、慣例に縛られるのを嫌い、自由を愛した作家のヴィクトル・ユーゴーの言葉に、「愛することは、ほとんど信じることである」というのがある。

たとえ愛してるヒトでも、自分とは違う信条を持って生きているんだと、ユーゴーは言ってるんですね。

だから、たとえ自分がこうしてほしいという想いに反した行動を、愛したヒトが取ったとしてもそんな所も含め、まずはそのヒト自身を尊重して信じてみなさいと。

ただどうしても、自分の信条から鑑みて、信じられない、我慢ならぬというなら、もうそのときは無理をせず、以後交わらずに生きていけばいい。

ボクはそう考えるんですが、どうなんでしょうか、賛同は得られませんかね。

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