もうボクは決めてるんです。
マメヒコになにか些細な問題が起きても、
その問題は解決などせずに、放っておこう。
ボクはそう決めているのです。
うちの近所の桜並木が、最近、どんどん植え替えられてます。
大きくなって、道路からはみ出したり、
なかには倒れたりする危険があるからなんですよ、
そう役所の連中は言ってる。
あぁ、そうですか。
それは仕方ありませんね。
だけど桜並木があるから、
この街はいくらか良い街なのではありませんか。
老木が倒れてくる?
倒れんばかりの老木が、
いっぱいに花を咲かせるから良いのでしょう。
万にひとつ、木が倒れ、
ヒトでも怪我したら役所としての立場として問題だと。
だから解決案として、老木を切り、
大きくならない新しい桜に植え替えようというのは、
ボクから見れば、ちっぽけな正義という気がする。
たかがいくらかの管理費をケチるために、
コンパクトな桜並木にして、誰が喜ぶのか。
古い桜の木は雨が降ったあと、幹が漆黒になるのをご存知か。
そこにはウメノキゴケというものがついていて、
黒とも灰色とも、モスグリーンとも言えない斑模様になる。
ボクはその様が好きだ。
満開の桜の花よりも品が良い。
コンパクトな新入りの桜の木には、
ウメノキゴケがついていないのだ。
ボクに言わせれば、木が小さくなることより、
街の風情がなくなってしまうことが残念なのだ。
なぜ頭のいいヒトたちは、問題が起きたら、
それを微分して、いちいち解決案を考えるのだろう。
そしてみんなで考え出されたその解決案は、
なんだかなーという案ばかりなんだろう。
それならいっそ、
放っておいてくれたほうがどれだけいいか。
ボクが好きなプラタナス。
これはスズカケノキといって、
山伏の鈴懸に似たイガイガの実をつける。
この実は、へたな雑貨なんかより、よっぽど可愛い。
このプラタナスも、あちこちで、容赦なく切っている。
ほんとにバカじゃないのかと思う。
プラタナスは成長が早く、葉も大きい。
だから、ほっとけば、立派な巨木になる。
公園通りがプラタナスの巨木が並び、
オンブラ・マイ・フーが歌えるほどの木陰ができたら、
青のトンネルよりどれだけマシか。
プラタナスの樹皮は、古いものから剥がれて、
きれいな、まだら模様になる。
それが鹿の柄で、またいい。
大木の管理と、葉の掃除が大変だからと、
容赦なく剪定しているが、プラタナスに足がついていたら逃げ出すだろう。
ほっとけば美しくなるものを、
どうして放っておこうとしないのか。
わざわざ手をかけて、解決しようとし、
汚してしまうのか。
イチョウの街路樹。
これはやや実利?がある分、
古い巨木が東京でも残っている。
イチョウは防火のために植えられた経緯がある。
イチョウの樹皮を見ると、コルク層が厚い。
そのなかに水をたくさん含んでるため、
イチョウは火事になっても燃えにくい。
だから防火のためにイチョウはたくさん植えられた。
関東大震災や太平洋戦争の空襲でも残ったイチョウがある。
神社仏閣に植わっているのもそのためだ。
東京都のシンボルがイチョウというのは、
それだけ江戸や東京の歴史が火事に困らされたからだろう。
しかし、それもいまは昔。
イチョウにしたって、もう何の役にも立たない。
立たないどころか、葉の掃除はプラタナスよりはるかに大変だろうし、
ギンナンも臭い。
これだって手間のかかる金食い虫という観点で見れば、
真っ先に伐採の対象である。
それともコンパクトでギンナンもつけない、
ナニカに植え替えるつもりか。
たいしてなにもない表参道がいまのようにおしゃれスポットになったのは、
ケヤキ並木があったからにほかならない。
ケヤキは新緑もいいし、紅葉もきれい。
樹形がきれいな扇型なので、冬に葉を落としても美しい。
ケヤキを、欅って書くのは扇型だからだ。
だから、扇型に伸びず垂直に伸びる、
武蔵野1号っていう新種のケヤキは、欅ではない。
かつては欅の幹を船や橋げたに使ったり、
枝は江戸前の海苔の養殖にも使ったりで、
欅を推奨したのは徳川幕府だった。
今時、ケヤキで船を作るやつなんかいないし、
海苔の養殖といってもね。
つまりその場の問題を、次々解決していったら、
要らないものは切ってしまえということになる。
樹木は強い。
一度ある場所に根付いたなら、
場所を変えることができない。
だからその場所で生きる覚悟がある。
問題を解決したところで、
どうってことないのだ。
むしろ、別な問題が起きるだけだ。
それよりも問題が起きても解決しようとせず、
まるごと飲み込む。
ボクもそうありたいなと思う。
人間は木樹よりもずっと、ひ弱だ。