視座の高さ
若いヒトに毎日いろんな話をしている。これからの人生を生きるにあたって、どういうヒトの方が幸せか、と。
専門性を持っていて自分なりの課題が見えて、その課題を自分の力で変えていくことができるヒト。そして、自分の残りの人生とのバランスを考えて、社会に貢献しうることを、世代をまたいだ人間関係の中で出来ることが幸せなんじゃないか。自分のやっている仕事が必要とされていて、自分の課題と世間のニーズが一致していたら幸せなんじゃないか。
若い子は、年齢的に、そういうものを持ち得ない。でも、社会そのものの仕組みについて意義があると考えるヒトがいておかしくない。ピュアに本質に迫りたい気持ちをボクは応援したい。
ただ、その気持ちを持ち続けて幸せかというと、幸せになりにくい。社会は自分ひとりの力では変わらないからだ。下手な、こうありたいという気持ちというのを持っていることは、邪魔かもしれないね。それを幸せという尺度で言えば、小さな幸せを持っているヒトの方が幸せ。自分の専門分野からの視点しか持ちえない、偏ってしまっているヒトが幸せかというと、難しい。時代は変わるから。
今も時代の変革期。変革期に今までどおりじゃ駄目なんだということを、突き付けられるのが庶民だよね。その時、先が見えるヒトは視座が高い。ちょっと先の未来も、過去も、同時にぐるっと見渡せるヒト。
遠くが見えることは、学歴的な頭の良し悪しとは関係ない。苦労して来たかどうかに尽きる。苦労して来たというのは、いいことも悪いことも、経験が多いこと。それは、それだけ先を読む力が増えること。
慢性的な苦労が糧になることはある。一方で、単発な苦労が糧になるかというと、偏ったマイナスな情報だけで、糧には、ならない。人間の持っている暖かい面と冷たい面を両方経験する事が視座の高さになる。
視座を高めるためには、自分で行動して、ひとつでも多くの扉を開けることが必要ではないかという気がします。