すっぱいブドウというのは、イソップ童話の中にある一つの寓話でね。
お腹を空かせたキツネが、たわわに実ったブドウを見つける。食べようとするけど、なかなか取れない。キツネは、「どうせ、このブドウはすっぱくてまずい。こんなの元々食べたかったわけじゃねーよ」と、吐き捨てるように言って去って行ったという話なんだよね。
本当はブドウが食べたかったのに、それが叶わないときに、「あんなもの、どうせ」と言うのは、自分の食べたいと思っていた認知を変えて、食べたくなかったんだという話にすり替える事。こういうのを、認知的不協和という。
「ジャンプして届かなかった私がダメなのよ」と言ったところで、届かないものは届かない。キツネ自体が悪いわけじゃない。「すっぱいから食べなくて良かった」と思って生きていく方が、人間はむしろ強いし、悪口を言って去っていく方が新天地で頑張れる事がある。ヒトのマインドというのは、自分の思った通りにならない時、自分の認知を歪めて、納得して生きていく。それぐらい人間は弱い生きものなんだよ。
でも、こういう負け惜しみって、ヒトには言わない方がいいんだよね。
キツネが頑張る姿を見たヒトが、自分も届かないものを欲しいと思っている気持ちをキツネに重ね合わせ、自分事の様に応援してくれていた場合、キツネがブドウを取れなかった時に「別に欲しかったわけじゃないよ、あんなすっぱいぶどう。」と言うのを聴いたら、応援してくれてたヒトの気持ちは、応援から憎しみに変わっちゃう。
感情がそういう風に移るということを知っていることは、とても必要じゃないかな。
ブドウを取ろうとしてジャンプしてるキツネを応援したいというのは、人間の善意。それをキツネが負け惜しみで、「元々あんなすっぱいぶどうは欲しくなかった。」と言えば、応援していたヒトを傷つける。そういう事を、このイソップの童話は暗示しているんじゃないかなって思ったりします。