オープンクローズ

昨日、飲食店を経営しているヒトと話していてね。

お店って、常に開いていてオープンな状態だけど、きめ細かい密度でサービスをするためには、クローズな空間・関係じゃないと無理だと。両方の良さを共存させるのは、なかなか難しいよねっていう話になった。

箱根湯本にとある温泉があるんだけど、そこはとても良いんだよ。開かれているけど、クローズに近い、きめの細かいサービスをしている。日本人が持っているDNA的なものを信用しているというのかな、オーナーの心意気が細部に宿っている。洒落ていて、ユーモアがある。

地方の再生で行政が入ると、ダサくなるのは何故かな。日本の職人たちは、頼まれた仕事でも美意識を込めてやっていくわけでしょ。役所は平米いくらで考える。お金の概念は、日本の美意識を汲み取る仕組みにはなっていないんじゃないかな。

祇園のお店は、贔屓筋には他のヒトとは違うサービスをする方が公平であると考える。それがそのお店の信頼になる。それを詳らかにしたのでは上手く行かないことがあるのでクローズにする。

公平性を保つためには、クローズな関係性が必要。平等とはオープン。平等も公平も必要となれば、オープンとクローズを組み合わせなきゃいけない。それをどうやって組み合わせるかは、ある種、哲学で、哲学をみんなで共有できればいいよね。それを共有しやすいのは信仰だと思う。

ボクらのように、信仰を持たないで何かを成し遂げようと思ったとき、オープン性、つまり平等であることが是という価値観のヒト達も混じってきちゃう。このヒト達をどういう風に参加させ、排除しないながらも、そのヒト達の価値観を持ち込ませないかということ。

平等という価値観を持ち込まれたときに、それは平等だけど公平ではないと言い返せるかな?言い返さなくてもわかるようなヒト達だけで運営するクローズなやり方しか残る道はないんじゃないかなと思ったりするのですが、どうでしょうかね。

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