小さい頃は、日本という国に馴染めず、自分のことが理解されないという気持ちがあった。
サンテグジュペリの本を読むと、遠い世界のことが書いてあって、あぁ、自分は狭い世界で生きてるんだな、もっと広い世界を知りたいなと、子ども心に思ってね。
結婚せずに、一生、旅をして暮らしていくんだと思っていた。
でも、そんなことはなく、今はカフェの狭い世界で生きているわけ。
自分からすると遠い異国、秘境の地でも、そこは誰かの生活の場であったりするわけで、ヒトの暮らしはどこに行っても変わらないなと思うね。
朝日が出れば起きて、夜は日が沈めば寝る。何かを食べて、家族がいて、子どもが出来て、年を取ったら死ぬ。
ニューヨークにいた時、戦地のジャーナリストのヒトに、刺激的で生々しい話を聴いたことがある。その時、戦争アドレナリン、ヒトが死ぬのを見る快感、ドラッグ的なものを感じた。
そういうヒト達からすれば、砂漠の生活は何の変哲もない風景だろうけど、そこに暮らしているヒト達は、今日は風の向きが違うから、あの山に出来る縞模様が違う、見える星が違うとか、何気ない日常の小さな差異を見つけてそれを愛するという視点がある。
対する一方で、世界中の戦地のおぞましい話。
ボクは、前者の話の方がぐっとくるところがある。
世界のどこに行っても、みんな狭い世界の中で生きている。
もしかしたら、単調な生活の中に小さな違いを見つけて、そこに喜びを感じて生きることこそが、幸せの意味かもしれない。
毎日の単調な生活に腐れ、汚れていくことがあれば、季節の節目でハレの日があって、そういうものを発散して生きていくこともあったりね。
それはそのヒトが持っている、もともとの哲学や、生きていく上の宿命で、個々がどう感じるかということだと思うけど、ボクは狭い世界を嫌悪する一方で、狭い世界を愛しているヒトの方が、なにか敬うところがあるなという気がしますが、皆さんはどうでしょう。