「さよなら」という言葉の意味を、クルミドコーヒーの影山君に教えてもらった。
「さようなら」は、「左様であるならば」。つまり、そのようなことであるならば仕方ない、いなくなってしまうのはとても悲しいけれど、やむにやまれぬ事情がおありなんでしょうから、左様であるならば、こちらはお引止めをしません、去る者は追わずということだよね。
離れ離れになっても、それぞれの道を歩んでいきましょうという日本人らしい諦念観、諦めが含まれている。
養老孟司さんが、なんで自分は挨拶が出来ないのか?という話をテレビでしていたんだけどね。
養老さんが小さい時にお父さんを亡くされた。自宅で、いよいよという時、お父さんにご挨拶してあげて、と言われたけど、何を言ったらいいか分からなくて、お父さんをずっと見ていた。そしたら、お父さんが、「たけしちゃん、さようなら」と言うや否や、口から血を吐いてそのまま亡くなったそう。俺はおやじにさよならって言えなかった。大好きだった父親と最後の最後にお別れ出来てなかったんだ。だから、俺は挨拶ってものが嫌いだったんだなと思い出したと話してたんだよ。
なるほどなぁと思ったんだよね。
さよならって言っちゃったら、別れが確定しちゃう。
そのヒトの死のあと、自分はそのヒトのいない世界を生きること、生きていけちゃうことについて、裏切りというか、狡さ、自己欺瞞を感じる。そういうことが、ピュアな子ども心には許せないという気持ちは、わかるなぁ。
ボクも、とっても可愛がってくれたおじいちゃんが亡くなった後、みんながおじいちゃんの顔を触ったりしながら挨拶してたけど、ボクはその輪に加わりたくないって思ったもんね。その中に加わっちゃうと自分は偽善だという気がしてね。
ボクも挨拶は苦手だな。あの時、おじいちゃんにさよならって言えてないからかな。ボクはまだ、おじいちゃんと別れることが出来てないのか。
そう考えると合点がいくね。